洋食『のらくろ』【もうそこに店はない~京都・昭和名店遺産 第三話】

誰も知らない「のらくろ」の開業秘話。

下鴨本通の西側には、閑静な住宅街の間を走る脇道、下鴨中通ある。「のらくろ」はこの通り添いに静かに店を構えていた。過去に取材して意外だったのは、この店の前身が、二代目店主、石原進さんのお母さんが始めた「名曲喫茶のらくろ」だったという事実だ。開業は昭和7年、「クラシックを聴かせるモダンな店がある」と、大学教授やインテリ学生たちに当時は評判だったようだ。そんな喫茶店も戦争を境に転機を迎える。一家の長である石原末治郎さんが戦地へ赴くこととなり、閉業を迫られたのだ。終戦を迎え、なんとか戦地から戻ることができた末治郎さんだったが、家族とこの先のことを案ずる日々が、いたずらに過ぎて行くだけだった。思い悩んでいたある日、旧知の友人から「銀閣寺近くで洋食屋を始めた」という朗報が届く。渡りに船と手伝いを買って出たのが昭和21年のこと、「洋食のらくろ」として石原家が再スタートを切ったのは、それからわずか2年後の昭和23年だった。

京都市左京区下鴨宮崎町にあったモダンなストライプのシェードが印象的な店構えを今もしっかり覚えている。昼は11時半から14時まで、夜は17時30分~20時までだった。

銀幕のスターをも魅了させた、洋食というご馳走

昭和23年といえば、時あたかも「松竹京都撮影所」が時代劇映画の復興を目指す頃でもあった。大正12年に同町内に「松竹下加茂撮影所」として開所、一時は東京の蒲田に引き上げるも、昭和元年からは「松竹京都撮影所」として再開、フィルム原版倉庫の火災に見舞われ、太秦に移転する昭和27年まで、長谷川一夫の「稚児の剱法」「雪之丞変化」などの大ヒット映画を生み出し脚光を浴びた。それらの時代劇は「下加茂カラー」とまで称され銀幕界からも一目を置かれる存在だった。撮影所と「のらくろ」との距離は徒歩2分ほど、役者連中や制作陣に店の評判が知れ渡るにはまったく時間を要しなかった。撮影の合間には侍姿のままで大勢の役者たちが訪れ、その光景は一般客をずいぶん驚かせたらしい。撮影所の指定食堂に認められると、出前が殺到し配達業務に明け暮れた。前述の昭和25年の火災時には、フィルム缶が店にまで飛び散ってくるほどの火勢だったらしく、なんとか延焼は免れ、家族みんなで胸をなでおろしたという。

昭和42年に一度改装された店内の天井には、「末広がり」を験に担いだ唐傘が広がる様子をモチーフにした屋根型デザインが施されていた。

「見て学んだ父を超える」を目標に上京を決意した進さん

父の後を継ごうと、息子の石原進さんが東京での修業を心に決めたのが、昭和30年代の初め。門を叩いたのは、俳優でタップダンサー、さらには喫茶店やレストラまでも経営する実業家、青木湯之助氏が営む洋食チェーン「紅花(べにはな)」だった。青木氏が「紅花」で正にアメリカに勝負を挑もうとする発展途上の真っ只中である。いきなり飛び込んだ職場は、100人はいたであろうコックが行き交う大厨房。その戦場のような忙しさの中での下ごしらえだった。基礎中の基礎となるデミグラスソースは修業の間、みっちり叩き込まれ、そしてこの経験こそが、進さんの二代目としてのアイデンティティを盤石なものにする。

漫画「のらくろ」のように出世街道を駆け上がる。そんな意も込めた店名と聞いたことがある。そんな験担ぎがレジ前にはのらくろの人形が飾ってあった。

「トルコライス」という名物、その陰の地道な努力

 昭和39年、父が敷いたレールに甘んじなかった進さんが、「のらくろ」宿願の名物メニューを登場させる。トルコライスがそれである。わが国の洋食におけるトルコライスの謂れは、トルコ料理のピラウを一様にピラフやトルコ風ライスと呼んだこという説や、ここ関西においてはピラフではなく、炒めたケチャップライスに卵とカツを乗せ、デミグラスソースを掛けたものが主流となっており、三つの食材を掛け合わせたことから、三色旗のトリコロールが転訛してトルコライスとなった説など諸説あるが、その起源は定かではない。何にせよ、小生は「のらくろ」特製トルコライスと未だ信じてやまない。

取材時、厨房に入って間近で見せてもらった、進さんの改造フライパンを今もよく覚えている。それは、卵とじほど柔らかオムレツをフライパンの中で裏返すことが難しく、卵をスライドさせるように皿に盛り付けるための工夫だった。

「のらくろ」のトルコライスとは、炒めたケチャップライスにとろとろ卵で包んだオムライスに、一口カツを配分よく乗せ、仕上げに自慢のデミグラスソースを回し掛けたもので、他店のそれとは似て非なる珠玉のトルコライスだった。「紅花」時代を忘れることなく、日々丁寧に仕込まれるデミグラスソースに、朝早くから手作る自家製パン粉と、現役時代の進さんの誠心誠意に取り組む姿が今も瞼に浮かんでくる。開店と同時に満席になったことも珍しくないが、隆盛を極めた時代の姿は、閉店を迎える2020年の12月27日にも変わらぬ光景を見せてくれた。

トルコライスの次に好きだった、B定食の追憶

 ランチで人気といえば、トルコライスの次にこの「B定食」を挙げたい。大人のお子様ランチよろしく、ダメと知りつつ好物に甲乙がつけられず思わず迷い箸をしたのが昨日のころのように思い出される。逸る気持ちを抑えられず、口に放り込めば熱々のホワイトソースとカニの風味が広がるクリームコロッケ、サクッとした手作りパン粉を身に纏い、プリプリ食感が堪らなかったエビフライ、滑らかでいてコクと旨みのあるデミグラスソースが味わい深いハンバーグ、ここにサラダが添えられライスが付いて晩年の価格は確か1,400円だった。相方が一緒なら、ここに必ず「トルコライス」(900円)を頼んでとろとろふわふわ卵が優しく包んだケチャップライスを半分づつにして楽しんだことを懐かしむ。

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この記事を書いたライター

元橋一裕のアバター 元橋一裕 ㈱TikiScript 主宰

雑誌編集をも手掛ける広告制作会社:
㈱TikiScript(チキスクリプト)主宰
1958年生まれ。今は無き京都のリージョナルマガジン「京都CF!」の編集長を経て「ぴあMOOK関西」では「京都寺社案内」「京都老舗名店案内」「京都名酒場100」の責任変編集を任される。近頃SNSでも話題になった、KLK新書「京都カーストは本当に存在するのか」では山科区の紹介を担当している。