9月14日京都市で日本史最大のミステリーである「本能寺の変」真相に迫ると題して講演があった。講師は、静岡大学名誉教授の小和田哲男氏であった。光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の時代考証を手がける。6月に「明智光秀・秀満」を出版したばかりで、同書の刊行を記念して企画された。その時の様子を小和田氏の了解の下、紹介をする。
第Ⅰ部 明智光秀とは何者か 講師 小和田哲男氏 静岡大学名誉教授
誕生と出自をめぐる謎……謎だらけ
1)出生地はどこか
①岐阜県可児市瀬田 明智城(長山城)
②岐阜県恵那市明智町 明知城
③岐阜県山県市美山町
④岐阜県大垣市上石津町多良 多羅城
⑤滋賀県犬上郡多賀町佐目
明智氏は土岐氏の分かれなので、①信頼性が高い
屋敷の地名が残っている 「竹の越」は「館の越」が転訛したのか?
2)生年はいつか
① 永正13年(1516)
②享禄元年(1528)
③天文9年(1540)
①~③は、干支でいうと子(ネズミ)年である
「当代記」にると①では、山科で打ち殺されたのは67歳である
①と②では、12歳の差がある。①信頼性が高い 今後の研究に期待したい
3)誰の子か
①明智光綱の子
②明智光隆の子
③明智光国の子
④山岸信周の子が光綱の養子になる
「系図纂要」によれば①
「続群書類従」によれば②
土岐氏の分かれだったことは確実
{美濃国住人ときの随分衆也。明智十兵衛尉}(「立入左京亮入道隆佐記」)
朝倉義景に仕えるまでの光秀
①斎藤道三に仕えたか
織田信長正室濃姫(帰蝶)と光秀がいとこだった可能性がある
道三の娘である帰蝶といとこだとしたら、早くから斎藤道三に仕えていたのではないか 帝王学を学んだかも?
道三の娘濃姫(帰蝶)が信長に嫁いだ頃、光秀も絡んできたのでは?
弘治2年(1556)斎藤義龍は父道三と長良川の戦いで勝ち、父を敗死さす
道三側に立っていた光秀の明智城も攻められ、美濃を脱出する
②朝倉義景に仕える光秀
近世に書かれた「明智軍記」によると、弘治3年(1557)~永禄5年(1562)諸国武者修行をし、その後、朝倉義景に500貫で仕え、鉄砲寄子100人預けられたとある。 突然にそんなことがあるのか? 疑わしいがその頃に義景に仕える
福井市東大味に伝承として光秀屋敷跡があり、明智神社では、「あけっつあま」と言われている。
「遊行三十一祖 近畿御修行記」によると、光秀は越前の長崎称念寺門前(丸岡城の近く)に10ヶ年居住していた。しかし、永禄9年に近江の田中城を守っていたと言う記述もあり、今後の研究に注目したい
足利義昭を信長に引き合わせたのは光秀か
永禄9年(1566)9月、15代将軍足利義昭が細川藤孝に連れられて、越前に下っ
て朝倉義景を頼る 世に言う光秀がデビューしてきたのではないか
足利義昭・細川藤孝に接近する光秀 「永禄六年諸役人附」の足軽衆の「明智」は光秀である。幕府の家臣になったのではないか
朝倉義景が上洛する気配がないので、義昭は永禄11年(1568)7月22日 岐阜に迎えられる。光秀が織田信長正室濃姫(帰蝶)と光秀がいとこだった血縁関係がかなり有利になった。同年9月26日には信長が義昭を擁して上洛する。光秀は、二人の橋渡しをした。
信長・義昭に両属する光秀は、二人の主人に仕える。光秀が頭角を現すとともに義昭から離れ、信長に仕えるようになってきた。
織田家臣団の出世頭となる光秀
信長の人材登用が、譜代門閥主義から能力本位の人材抜擢であった。
永禄12年(1569)正月4日、三好三人衆が京都に攻め込み、義昭の将軍御所である本圀寺を囲み、戦いになった。光秀は、義昭警固にあたっていたうちの一人であった。
元亀元年(1570)京都奉行の一人に抜擢される。秀吉など3人は信長の家臣団であったが、光秀だけは異色であった。
元亀元年(1570)4月 「金ヶ崎退き口」には、秀吉だけではなく、殿を光秀もつとめ軍功をあげた。その後、姉川の戦いで織田は勝利し、浅井、朝倉軍は比叡山に逃げる。
元亀2年(1571)9月 光秀は信長の命を受け、忠実に叡山焼き討ちを実行し、光秀が積極的に加担している。発掘調査から全山焼き討ちではなく、一部である。発掘調査から、全山焼け跡の痕跡は見られない。大虐殺ではないかも?比叡山焼き討ちの論功で志賀郡の領域を知行地として受けとった光秀は、坂本城を築いた。織田家臣初の「一国一城の主」に抜擢された。
信長の安土城より早い坂本城天主が立っていた。豪壮華麗だったといわれる坂本城も天正10年(1582)山崎の合戦後、焼失してしまい、城跡の痕跡はほとんどなく、たまに琵琶湖が渇水して水位が低下したとき、石垣が姿を現す。
天正3年(1575)信長は丹波攻めの総大将として光秀を指名した。今までの光秀の戦いぶりを評価していた。天正元年(1573)7月までは、室町幕府が形としてあった段階では丹波の有力国人たちは「信長・義昭二重政権」に組み込まれていたが、義昭が追放されたのに反発し、一斉に信長に離反してしまったのである。信長の手が丹波に及んでいなかったのである。
天正7年(1579)5年の歳月を費やし、丹波を平定する。その間、黒井城や八上城・宇津城を陥れている。光秀の領国経営の一つとして周山城を築いている。天正9年(1581)8月14日、光秀が茶人の津田宗及を周山に招き、十五夜の月見を楽しんだ。
信長によって「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候」(『信長公記』)と称賜されたころ、光秀は丹波一国を与えられた。丹波亀山城、福知山城を築城し町づくりをしたので、今でも名君と言われ慕われている。
光秀の娘玉(ガラシャ)が細川藤孝の子忠興に嫁いだのは天正6年(1578)8月で、これは信長のお声がかりの輿入れであった。
天正9年(1581)2月28日 京都御馬備えの総括責任者を務める。京都の公家や町衆たちに、織田軍団の面々が馬を乗り遊び、その若やいだ姿をみせた。正親町天皇も「見事だ」と褒めている。この軍治パレードを通じて、光秀は織田軍団のトップとなったと考えられる。
第Ⅱ部 パネルディスカッション「本能寺の変 -主君信長をなぜ討ったのか」
司会は天理大学文学部准教授の天野忠幸氏
パネリストは、小和田哲男氏・藤田達生氏・呉座勇一氏
三重大学教育学部教授の藤田達生氏 「足利義昭黒幕説」&「室町幕府復活説」
1573年(元亀4年)7月に信長が槙島城を攻めて将軍義昭を追放し、天正と改元したことをもって「足利幕府滅亡」とみなす「信長中心史観」を批判する。義昭は京を追われた後もたびたび反信長包囲網を画策、鞆の浦(現広島県福山市)に移ってからも隠然たる力を持っていた。備中高松城の陥落を恐れた義昭が「光秀に誘いをかけた」のではないか。
何の政治的・軍事的展望もなしに衝撃的にクーデターを起こすだろうか。信長を倒した後の政権像をあらかじめ思い描き、その準備をしていたと考えるのが自然である。
長宗我部元親や上杉景勝らとの事前共謀をうかがわせる資料や2017年に義昭の再入洛に尽力する旨を記した書状の原本が発見された。
本能寺の変は、大きく3層構造をなしていた。
①基層…「四国の覇者」をめぐる長宗我部と三好の争い
②中層…西国支配における織田家臣団の派閥抗争
③上層…伝統的な室町幕府と新しい国を作ろうとする信長のぶつかり合い
国際日本文化研究センター助教の呉座勇一氏 「突発的な単独犯行」
黒幕説には否定的である。朝廷はスポンサーである信長との関係強化を望んでおり、信長を敵視していたという見解は成り立たない。すでに将軍としての影響力は衰えていた。
• 共謀があれば、義昭配下の毛利輝元は羽柴秀吉を中国地方に足止めしていた
• 細川藤孝に協力を求めた光秀の書状に、説得材料になる義昭の名がない
大きな結果をもたらした大事件の原因を考察する場合、結果に見合うだけの大きな陰謀主体を想定しがち。信長・信忠親子が少数の兵しか従えず京にいる状況は、黒幕とやらの力で創り出せるものではない。突然訪れた好機を逃がさず決起したという突発的な単独犯行である。
本能寺の変の真相をめぐる諸説は50にのぼるが、単独犯行説と、主犯・黒幕存在説に大別される。単独犯行説は、信長による「いじめ」に欝憤(うっぷん)を募らせた「怨恨説」や、光秀自身が天下を取りたいという「野望説」に代表される。そうした古くからの見方に対し、1990年ごろに台頭したのが「朝廷黒幕説」である。
「朝廷黒幕説」は、信長が正親町天皇に譲位を迫ったことや、自らを天皇より上位に位置づけようとした振る舞いに、朝廷勢力が反発心や危機感を覚えて光秀を動かしたと言う。
「朝廷黒幕説」には懐疑的で、最近は、信長と朝廷は敵対していなかったという論調が主で、黒幕説はやや影が薄くなって来ている。
信長と朝廷が円満な協調路線だったとの見方にはくみしないが、信長の暴走を止めるために光秀が決起したという「信長非道阻止説」が自説である。非道とは・・・・・
①比叡山の焼き討ちや、一向一揆との戦いで門徒農民虐殺
②将軍義昭追放や天皇大権である暦の決定権に口出し
③太政大臣の近衛前久に暴言を吐いたりする朝廷への「傍若無人な」行為
光秀が中枢から外されていくように感じた彼の焦りなど、謀反に至る心情面に光を当てる。
歴史は勝者が書く。戦いに勝った側が自分の正当性を誇示しようと、敗者を貶めるため、実際史上に敗者が悪人にされる傾向があるが、その最たる例が明智光秀ではないか。本能寺の変も含め、従来の光秀像の見直しの研究が進む事に期待したい。