【茶道とは。何モノか。シリーズ】

第1回「茶道とは。何モノか。」◀︎今ここ
第2回「わび、さびの誕生」
第3回「茶の湯の成立」
第4回「世界の港湾都市大坂堺」

 九州博多の立花家に千利休の秘伝書として伝わった古伝書「南坊録」。利休宗易の弟子 南坊宗啓(なんぼうそうけい)が利休流茶道秘伝書として記した。その一節に「小座敷の茶の湯は、第一、仏法を持って修行得道すること」とある。

 家居の結構、食事の珍味を楽しみとするのは、俗世のことである。家は雨の洩らぬ程度、食事は飢えない程度でよい。これ仏教の教え、茶の湯の本意である。すなわち水を運び、薪をとり、湯を沸かし、茶を点てて、仏に備え、人にも施し、我も飲み、花をたて、香を焚き、皆々、仏祖の行の跡を学ぶのである。なお、くわしいことは、自分で研究せよ。」という。

 この言葉は、茶道精神を遺憾なく簡略に伝えた名言として有名な言葉で、現代における最新の調査では、著者とされている南坊宗啓は、堺の南宗寺 集雲庵の僧侶であり、利休の弟子とされているが、他の史料には一切登場しないことから、実は架空の人物であるとされました。いわば、キリスト教の聖書のように、イスラム教のコーランのように、釈迦の経のように、歴史的事実としては、著者不明のバイブルとして、精神が脈々と受け継がれ、現代における私たちの生活文化に深く根ざしていると言えるのです。

 総合芸術である茶道を紐解くと、日本人の生活文化の起源をたどることが出来、美しさとは何モノか、正しい事とはナニ事か、合理的な用の美とは、どのようにすれば良いのか。平等な哲学と思想がちりばめられています。茶道文化の起源は仏教とアジア思想に辿ることが出来ます。

 例えばお茶会で床によくかけられる掛け軸の言葉で、「本来無一物」(ほんらいむいちもつ)という言葉がありますが、これは「禅」の根本原理とも云える言葉で、人間は裸で生まれてきて、何も持たずに死んで行きます。これは、何人たりとも逃れられない事実で、その間をどのように生きるかが、人生です。

 「本来無一物」この言葉は、「禅」の始祖である達磨大師(だるま)から数えて六代目の弟子にあたる中国の六祖慧能(ろくそ えのう)がいった言葉です。それまでのインドからシルクロードを通じて伝わった仏教は、座禅 瞑想(ざぜん めいそう)を通じて悟りの境地に至るという考えでしたが、慧能(えのう)が発見し、発展させた「禅」は「人間の生活そのもの、人生そのものが、実は修行なのである。」と、云うものでした。

 慧能は、「万巻の書を読まなくても、学問のない人でも人間生活の中での経験を通じ 深く考え、探求することによって、仏になれる。本当の仏とは何ですか? それが大切なことなのです。」と、自らも実践し、仏教「禅」に新たな道を開いた歴史上の人物です。

 これは「菩薩善戒経」と言う経(おきょう)にも描かれています。「時々勤拂拭」時々(じじ)に勤(つと)めて、拂拭(ふっしき)せよ。心も身体も、常に曇りを拭き清めねばならない。稽古の時にだけ作法を守り、日常に戻れば元の木阿弥(もくあみ)では、意味がない。いつ、いかなる時も、私たちが出会い経験する様々な事象の詳細や、一挙手一投足(いっきょしゅ いっとうそく)をおろそかにせず、一貫した心で事に当たり、生活せよ。やがて、鍛錬(たんれん)が進むと、面白いと感じて笑い、悲しいと感じて泣く、常に計(はから)い事のない心に保つことが出来るようになると、心の曇りを拭き清める必要もなくなる。「時々に」その時、そのときを疎かにせず、日常が茶の湯なのである。

 ある人が、利休を訪ね、「風炉と炉、夏と冬の、茶の湯の心得、極意秘伝を教えていただきたい。」と頼んだ事がありました。利休は、「夏はいかにも涼しいように、冬はいかにも暖かいようにもてなし、炭は湯が沸くように置き、茶は飲み加減のいいように点(た)てる。これが、侘び茶の秘事です。」と、答えました。尋ねた人は、「そんな事は、誰でもわかっている事です。私が知りたいのはもっと深遠な事です。」と、いったところ、利休は「今、申し上げた事がきちんと出来たなら、私の方こそ、あなたのお弟子になりましょう。」と、言いました。

 この利休のエピソードも、中国の唐時代の「禅」のエピソードに見てとる事が出来ます。唐の有名な詩人 白楽天が道林禅師のもとへ行き、仏教の大意について尋ねたところ、道林禅師は、「諸悪莫作衆善奉行(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)。」と、こたえました。つまり悪いことをしないで、善(い)い事だけをしなさい。と、いう意味です。白楽天が、「そんな事なら、三歳の童子でも知っています。」と言うと、道林禅師は、「三歳の童子でも知っているが、八十歳の老翁(ろうおう)でもなお実行し難い。」と答えました。この「諸悪莫作衆善奉行(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)。」という言葉も茶席の床によく掛けられる、有名な言葉なのです。

 利休曰く、「茶の湯を嗜む者は、心の中が きれい でなければならない。」この「きれい」は世俗の欲望を捨て去るところに出発点があると云い、つづいて、「心の中だけがきれいだからといって、表面がむさくるしくてはいけない。他人に、むさくるしさを感じさせないだけの、気遣いも大切である。」と、伝えています。この仕掛けが我々の日本の伝統ある生活文化の中に密かに散りばめられているのです。
 
 

  

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やはり禅問答は奥が深かったですね。それにしても日常の生活そのものが修行とは。

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この記事を書いたKLKライター

禅者 茶人 建築家
松尾 大地

 
昭和44年(1969年) 京都 三条油小路宗林町に生まれる。
伏見桃山在住
松尾株式会社 代表取締役
松尾大地建築事務所 主催 建築家

東洋思想と禅、茶道を学ぶ。

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