千利休は、室町時代中期 大永2年(1522年)和泉国・堺 (現在の大阪 堺市)の納屋衆(倉庫業)の家に生まれた。「魚屋(ととや)」という屋号で、港に着いた塩魚や乾物を一時保管するため、倉庫を商人に賃貸する倉庫業を営む家であった。広く知られた利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないため、正親町天皇から与えられた居士号で、幼名は田中与四郎(與四郎)、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。
この頃の日本は、足利将軍家の時代である。大阪の堺は、摂津国・河内国・和泉国の3国の 「境(さかい)」であったことに由来し、市街地はその西方に形成され、 大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男である足利義維が支配し、足利義維は「堺公方・さかいくぼう」と呼ばれ、堺公方の奉行人は、ほとんど幕府同様に文書を発給していたことから、その体制を現代の研究者が堺幕府と呼ぶ程の独立した自治的な都市運営が行われていた。
大阪 堺が拠点となって行われた日明貿易は、室町時代に日本が中国の明朝との間で行った貿易で、応仁の乱以後、遣明船を 自力で派遣することが困難となった室町幕府は、有力商人にあらかじめ抽分銭を納めさせ、遣明船を請け負わせる方式をとっていた。その際の抽分銭(輸入税)は取引貨物の価格の10%である3000〜4000貫文であった事から現代の貨幣価値に換算すると、少なくとも年間60億円分は、海外から舶来品が輸入されていた事になる。
そして、堺は世界の最先端の技術と情報が集まる場所であり、寺の集会から始まった会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる36人の自治評定組織によって都市が運営されていた。堺は日本の大名達にとっても軍事的勝敗を分ける鉄砲などの最先端の技術が集まる港湾でもあった。情報と物流の拠点であった堺の街は世界有数の国際貿易港湾都市として発展し、世界から 「東洋のベニス」と呼ばれ、栄華を極めていた。日本のキリスト教史上最初期の宣教師で、京都での布教を開始した、ポルトガル人のカトリック教会 司祭 ガスパル・ ビレラは 永禄5年(1562年)のイエズス会への報告書の中で 、「他の諸国において動乱あるも、 この町にはかつてなく 敗者も勝者もこの町に在住すれば、 皆平和に生活し、諸人相和し、 他人に害を加えるものなし。町は甚だ堅固にして、 西方は海を以て、 また他の側は深き堀を以て囲まれ、 常に水充満せり」と書き、 1598年のオルテリウスの日本地図の中にも、Sacay(堺)という名前が記され、Meaco(都=京都)とともに 知られる主要都市であった。戦国時代にあっても、周囲を壕で覆い浪人に警護させ、 商人が独自に自治を行う、 独立した都市であった。
この頃、16世紀末から17世紀初頭にかけて、初期豪商と呼ばれる特権的商人が現れ始め、日本が未曾有の海外進出を遂げたこの時代の代表的な堺の豪商が、薬種問屋・財貨運用の小西隆佐や軍需品の今井宗久、交易・石山本願寺の御用商人 津田宗及である。
「茶の湯」は戦国武将や堺の豪商である会合衆達にとって、政治的な重要な打ち合わせの場でもあり、最も換金性の高い投機商品でもあった唐物(外国製)茶道具の銘品を鑑定 評価する場でもあった。堺においての「茶の湯」文化サロンの中心人物であったのが、後に「茶の湯」を大成させた茶人 武野紹鴎である。紹鴎もまた武具を取り扱った豪商であり、彼のもとには弟子として、室町幕府第13代征夷大将軍 足利義輝、戦国武将 三好実休、戦国武将 長谷川宗仁、戦国武将 松永久秀、戦国武将 細川幽斎、戦国武将 荒木村重、豪商 今井宗久、豪商 津田宗及、納屋衆 千利休、呉服商 連歌師 辻玄哉、詫び茶人 丿貫(へちかん)達が師事し、次代の日本史と文化を形成することになる精鋭が集まっていたのである。
千利休が武野紹鴎に弟子入りした時、露地の掃除を命ぜられた。利休は丹念に庭中の落ち葉や塵を全て取り除き、その後木々を揺すって、苔の上に葉を散らした。武野紹鴎はこれを見て、与四郎(千利休)の感性に驚いたという。市中の山居の詫びの風情というものを紹鴎が教えずとも与四郎(千利休)が知っていたと言うエピソードである。やがて大徳寺の大林和尚にも参禅し、与四郎(千利休)は、宗易を名乗るようになった。
ある日、宗能に武野紹鴎が招かれた茶会に、千斎、宗易、宗也と三名が相伴することになった。四人はあらかじめ紹鴎の屋敷に集まり揃って出掛ける事になった。世界の貿易都市 堺の街には、様々な店が立ち並び、紹鴎は道中、道具屋の店先に置いてあった青磁の両耳花入に目をとめた。しかし、茶会への道中でもあり他の者も一緒であったので、「明日の朝はやくにでも家の者に買いにやらせて、あれで一会もつ事にしよう。」と、心中に思いながらその場は通りすぎていった。早速翌日、使いの者にその両耳青磁を買いにやらせたところ、使いの者は何も持たずに帰ってきた。既に、誰かが買ってしまったとの事である。紹鴎が大変残念に思っていたところ、宗易(利休)の使いが茶会の案内状を持ってやってきた。「明朝、茶会を催したく存知ますのでお越しくださいませ。相伴は昨日一緒であった千斎と宗也さんでお願い致します。ちょうど手頃な花入を昨晩手に入れましたので、御披露致したく存知ます。」と、いう内容であった。紹鴎は昨日、自分が目につけた花入に違いないと思い、苦笑いした。当日になり、紹鴎は考えがあって金槌を懐に忍ばせ宗易(利休)の茶会に出かけていった。露地入りの案内があり、茶席の戸を開けて中を眺めた紹鴎は一瞬たたずみ、思わず手を打った。相伴の二人は不思議そうな顔をして席に入った。床には、既に片耳を金槌で欠けさせた青磁耳つき花入に白椿が一輪、生けてあったのである。少し間を置いて挨拶に出てきた宗易に、紹鴎は「昨日、私が見立てていた花入を、其方も目を付けていたとは驚いた目利きである。しかも、私が内心思っていた事と同じように、片耳を金槌で欠き落としたとは、大変あっぱれな行為である。この青磁の花入は大変立派であるが、侘び茶道の花入としては、完全すぎて少々面白くない。もし、両耳のままに使っていたならば、中立の時に片耳を落としてやろうと思って、ほれ、こうして金槌を持ってきた。私にこの金槌を使わせないだけの茶人が居ようとは、あっぱれである。」と、言って紹鴎は懐の中から金槌を取り出して見せた。相伴の千斎と宗也は、紹鴎と宗易の侘び茶の目指すところが余りにも一致している事実を知って、驚かされたと言う。この話は「南方録・滅後 巻」に収録されている。
茶道具など美術品の鑑定は、その作成された当時の素材や技術力を軸として鑑定される。つまり、作成当時の技術力で到達し得ないと思われる精度であったり、出来すぎた風合いの美術品は当代の新しい技術によって製作された贋作(安物)と見られる。この花入の真偽は記録から伺い知れないが、当時から更に遡る200年以上前の中国 南宋時代の青磁であり、出来過ぎていた花入であったと思われる。
能の世界で云われる 「幽玄」や「侘び」は、 室町時代の概念で、能楽師 世阿弥は、時節感当(その場その場 臨機応変)に、客観(自分が見えている事)、 離見の見(外から見た自分)、そして、訓練を極めた先に辿り着いた境地とその先に訪れる「幽幻」を極意と説いた。つまり、訓練の果ての完璧の先には不完全が生じ、これこそが解き離れる自由であるという。侘びも、 完全を最高とするのではなく、 完全を超えた先に訪れる、不完全さが真の本質であるという。
後に、宗易(利休)が弟子に語った言葉に、「叶うはよし、 叶いたがるはあしし」と、いう言葉がある。これは、望んで計算し、仕向けた美は汚れ、表面に現れるものである。人間の「美」とは、「第三者の評価を得ようと計算する努力は駄目だ。」評価を得ようと計算する心を捨て、無心に没頭し邁進するの心こそ、真実の「美」を生み出すものである。自らの損得や計らい誘導(餌で釣る)して評価を得ようとする行為は汚れ、失敗する。一挙手一投足、瞬間毎に汚れない美を選択せよ。これは、「禅茶一味」(仏教の思想と茶道の精神は同じの意)一服の茶を点てる事と、戦国武将の戦中の選択も同一である。乱世では、人知を超えた時代と時を感じる能力がなければ生き残れない。「美」の本質とは何か。乱世とは、我々の現代においても原理は同じなのである。