昭和25年(1950年)7月2日に金閣寺は放火により炎上した。この炎上ドラマは、のちに三島由紀夫の小説「金閣寺」や水上勉の「五番町夕霧楼」「金閣炎上」などの題材になったことで知られている。放火したのは、当時21歳の金閣寺の徒弟僧侶だった。舞鶴出身の彼は京都に出て来て大谷大学で勉強するかたわら、金閣寺に住み込み修行僧として研鑽に励んでいた。それが、何を思ったのか「金閣寺という美」に対する嫉妬と、自分の生活環境があまりに悪いにも関わらず拝観に来る有閑的な人に対する反感から放火したと、西陣警察署の取り調べに供述している。
炎上の直後、犯人の徒弟僧侶は裏山に逃げ込み、自殺を図ったが死にきれなかった。警察は当初犯人が誰か分からず、当時住み込みで地方から修行に来ていた多くの徒弟僧侶を片っ端から尋問したそうだ。成岡の知り合いの高齢のお坊さんも西陣警察署に連れていかれ、長時間尋問に会って、参ったそうだ。
炎上からしばらく後、再建の計画が持ち上がり、経済界、地元財界から多くの寄付、寄進があり再建し建立することとなった。その際に一番困ったのは、材料特に使用する材木が近隣にないことだった。昭和29年(1954年)にようやく棟上げ式を迎えることになるのだが、全国各地から材木を買い集め二条駅に貨車で運んだ。そして、二条駅で材木を降ろし、まだトラックなどがあまりなかった時代なので、牛車に曳かして千本通りをゆっくりゆっくり運んだそうだ。
ご存知のように、千本通りは丸太町から徐々にのぼりがきつくなり、今出川を越え、鞍馬口通りから急こう配になる。千本北大路は東寺の五重塔のてっぺんと同じ高さというのはご存じだろうか。牛車は千本北大路を左に曲がり、今度は北大路通りを西に進んで紙屋川手前の坂を下り、ようやく金閣寺再建の現場に到着する。この牛車の列が千本通りを行進する様は、当時非常に話題になったそうだ。成岡の実家がある衣笠の家の前を、多くの牛車が材木を積んでのっそりのっそり運んで行ったと思うと、何やら当時の風景が目に浮かぶ。
他の材料、特に金箔とそれを材木に接着さす「漆」も貴重品だった。国産の「漆」がなく海外から輸入することになるが、当時の国際情勢で「漆」の輸入が困難を極めたそうだ。
幾多の困難を乗り越えて再建された金閣寺。いま、多くの海外からの観光客で賑わう境内には、当時の炎上の面影は皆無だ。ほとんどの人が、この美しい金閣寺が放火され炎上して、いったんは廃墟と化したことを知らないのではないだろうか。炎上再建されたので、金閣寺舎利殿の建物は国宝にはなっていないのだ。