昭和29年に再建された金閣寺。当時の様子を知る情報はほとんどないが、昭和29年といえば太平洋戦争の終戦後10年は経過していない。まだ日本は復興途上で、十分な資材もなく再建は難儀を極めたと聞いている。いろいろな団体や国、京都府、京都市、財界、地元などが寄付集めに奔走し、ようやくなんとか資金の目途がついて再建に至った。
私事で恐縮だが、成岡の実家は金閣寺にごく近く、昭和27年の2月に現在の場所に引っ越してきた。成岡の祖父が購入した家だが、2年前に金閣寺が放火に会い、再興の途中だった。祖母の実家が千本通りの上長者町で医者を営んでおり、ルーツをたどれば岐阜の出身という。祖母の実家の姓は伊藤で、岐阜の生家の遠い親戚に金閣寺の執事長を務めた方がいらっしゃった。縁があって金閣寺の近くに住まいを構えたので、当時の執事長からのお誘いがあり、墓地を金閣寺に設けることとなった。のちに成岡の実家は金閣寺の檀家総代を務めることになるのだが、この当時から祖父は実業界の役職を務めていた関係で、寄付集めに走り回ったと聞いている。
ようやく完成し再建された金閣寺だったが、当時の資材はあまり品質がよくなかったのだろう。金箔が永年の劣化で表面がくすんできて、昭和50年代にはその輝きが次第に失せてきた。黒門を入り、庭園の入り口から見る金閣寺は、輝きも失せてこれが金閣寺かというくらい、みすぼらしい状態になっていた。
そこで、お寺は決断をし、昭和の大改修に踏み切った。昭和62年(1987年)に大改修を行い、漆の塗り替え、金箔の張替え、さらに天井画と義満像の復元を行った。金箔の層を5倍にしたと聞いているが、その結果輝きは以前の数倍の美しさになり、多くの観光客が押し寄せることになる。当時のお寺の台所は大変だったと聞いているが、これだけの大金をかけていいのだろうかと大いに心配したそうだ。ところが、ふたを開けてみるとこの美しさを取り戻した金閣寺は大変な評判を呼び、京都に来る観光客の定番のスポットとなる。昭和の大改修が完成以降、大型の観光バスが数珠つなぎに押し寄せ、駐車場に入りきらない車であふれかえった。
成岡の実家は駐車場の出口から50メートルくらいにあり、西大路通りと北大路通りのカーブの交差点への通過途中で、当時大型の観光バスが赤信号で家の前で停車すると猛烈な排気ガスで庭の植木が枯れたくらいだった。周辺の住民からの苦情があったのだろう、お寺から山ほどの無料拝観券が届けられた。それくらい、昭和の大改修の効果は大きく、現在の金閣寺の観光スポットとしての地位を不動のものにしたといえる。