桓武天皇が平安京遷都にあたり、山背を「山河襟帯 自然作城」と評した。その意味は、「山が襟のように囲んでそびえ、川が帯のように巡って流れ、自然の要害をなしている」と述べている。そして、山背を山城と命名した。東京遷都まで都が千年も続いたのも、自然の地形によるところが大である。「都」である「京」すなわち「京都」が、日本の歴史舞台にたびたび登場してきた。歴代天皇が歩いた土の上を紫式部、清少納言がしなやかに歩き、平清盛、足利義満が政治を行い、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と引き続きやっと住人の生活も安定し出してきた。坂本龍馬、西郷隆盛、木戸孝允たちが必死になって新しい国づくりに奔走したのも同じ土壌の上であった。

 織田信長が足利義昭を擁して入京してきた京都は、応仁の乱以来、長く荒廃が続いていた。都の住人は、上京と下京の町を土塁・堀などで囲んだ自衛防御施設を作っていて、それを惣構と言って、上京と下京の町を繋いでいた道が室町通りであった。信長が本能寺から室町通りを通り、御所まで行進した馬ぞろえの観兵式軍事パレードには、多くの都の住人が見学したと伝わる。都の住人にとっては、よそ者が勝手に都で争い、勝手に神社仏閣や町を燃やされた苦い経験があった。今でも京都では「一見さんお断り」の思想が残るのも納得がいく。都の住人は、この軍治パレードを見て、戦いのない「平安」な生活が戻る事を期したに違いない。信長が、衰退していた朝廷を復興し、安定した街づくりに努めだしたのだ。その志は途中で頓挫してしまった。

① 加茂川中学校横  堀川通り沿い

① 加茂川中学校横  堀川通り沿い

② 交通公園内  史跡に指定されていない

② 交通公園内  史跡に指定されていない

 信長の後を継いだ豊臣秀吉は、京都の町を近世都市へと変貌させた。武力による日本統一はもはや達成されたとの意識を前提にして、荒廃した京の都を改造する政策の一つとして「御土居」を築造した。秀吉が天正15年(1587)に築城した「聚楽第」を核とし、その惣構えとして構築されたのである。秀吉は京の町を拡大するため上京と下京の惣構を取り壊し、それに代わる大規模な惣構としての「御土居」を築造したと考えられている。「御土居」は、日本の都にはじめて登場した都市城塞と環濠であり、住人の安全な暮らしを保証するものとして機能した。応仁の乱以来、長く荒廃が続いていた都は、秀吉の権威と諸政策によって「平安」を取り戻していったのである。平和で治安のよい都市には人が集まり、経済活動が発展する。秀吉が再生した京都は、天皇の住む都として江戸・大坂に並ぶ繁栄を遂げていったのである。

③ 大宮土居町  玄琢下  ブラタモリで紹介され注目された

③ 大宮土居町  玄琢下  ブラタモリで紹介され注目された

柵のなかに入るには、京都市文化市民局文化財保護課で手続きをし、事前に鍵を借りなければならない。

③ 大宮土居町  250mの土塁と堀

③ 大宮土居町  250mの土塁と堀

「御土居」は豊臣秀吉の命により、天正19年(1591)外敵の来襲に備える防塁と、川の氾濫から市街地を守る堤防として多くの経費と労力を費やして築かれた。諸国の大名が動員され、その家臣らが実際に工事に従事し、1月に始まり、遅くとも5月には完成したようである。

北は上賀茂から、鷹峯、西は紙屋川から東寺の西辺、東は鴨川の西岸、南は東寺の南側の九条通りまで。南北約8.5㎞に及び、東西約3.4㎞、総延長22.5㎞に及び、土塁と堀で都をスッポリ囲んでいた。その延長は、現在の東海道本線京都駅から草津駅までの長さである。外側の堀とあわせて「御土居堀」とも呼ばれている。何故?秀吉がこのような惣構を思いついたのか?1年前には北条氏が籠った小田原攻めを行っている。城下町は9㎞の土塁と堀で構築された「惣構」を有しており、手こずった経験があったのではないか。

土塁の上

土塁の上

④ 鷹峯旧土居町

④ 鷹峯旧土居町

柵内に入るには、向かいの光悦堂で鍵が借りられる

⑤ 鷹峯旧土居町  河岸段丘上

⑤ 鷹峯旧土居町  河岸段丘上

北野神社の南の北野中学校付近では、「御土居」は西へ200m以上出っ張るかたちになっている。この部分を「御土居」の「袖」と呼ぶが、どうしてこの部分だけ飛び出しているのか、確かなことがわかっていない。円町付近に西の刑場があったので、その関係があるかもしれない。
⑥ 紫野西土居町

⑥ 紫野西土居町

  
⑦ 平野鳥居前町  整備された御土居

⑦ 平野鳥居前町  整備された御土居

「御土居」の構造は、外側に堀を巡らせ、内側には土を盛り上げて土塁を築いた。その断面は基底部が約20m、頂上部が約5m、高さが約5mの台形状であった。土塁の外側に添って堀(堀の一部は、川・池・沼など利用)があり、その幅は10m、深さは最大約5m程度であった。土塁上には土崩れを防ぐために竹を植えた。

「御土居」の内側は洛中、外側は洛外と呼ばれ、要所には出入口として、長坂口・鞍馬口・大原口・粟田口・伏見口・東寺口・丹波口など「京の七口」がつくられた。人や物資の出入りを見張り、外敵の侵入に備えた。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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