京都の天守閣といえば…
京都での天守閣と言えば、京都盆地南東の桃山丘陵に聳えている伏見桃山城を思い出す。この城は、昭和39年(1964年)に観光目的に建てられた鉄筋コンクリート製の模造天守閣で、平成15年(2003年)遊園地が閉園されて以来、登城することはできない。
豊臣秀吉が、京都で政務を始めた城郭は、指月伏見城であり、隠居屋敷の意味が強かった。しかし、文禄5年(1596年)の大地震(慶長伏見大地震)で倒壊し、木幡山に新しく本格的な城郭を築いた。その後、この城郭は徳川家康に引継がれ伏見の城下町づくりに発展した。
金箔瓦が輝く!秀吉と聚楽第の最盛期
天正13年(1585)に関白となり天下の実権を握った豊臣秀吉は、平安京の跡地に金箔瓦が輝く政庁兼邸宅「聚楽第」を2年後に完成させた。「聚楽第」の惣構えとして京都を取り囲む22.5㎞に及ぶ土塁「御土居」も築いた。突然、黄金に輝く天守閣が出現し、町衆は驚嘆したに違いない。「聚楽」とは「長生不老の楽を聚むる」を意味している。
聚楽第の惣構え「御土居」の記事を読む「聚楽第」を中心として大名屋敷が設けられ、市中は平安京の条坊制による正方形地割を短冊形地割に変え(天正の地割)、また禁裏御所は大改修されてその周辺に公家屋敷が集められ、市中の寺院は移転させて寺町・寺之内を造るなど、後の城下町のモデルとなった。
京都の大改革を行ったのだ。
「聚楽第」へは後陽成天皇、正親町上皇らの行幸もあり、北野天満宮では北野大茶会が催される等、京都は秀吉の権勢により華やかな時代を迎えた。
「聚楽第」はどのような城郭であったのかは、残された絵図から知ることができる。
大きく内郭と外郭の二重構造になっている。内郭は北から北之丸、本丸、西之丸、南二之丸によって構成され、内部には金箔瓦で飾った天守や隅櫓、檜皮葺の御殿などの建物が描かれている。そして、外郭には堀に架かる橋や大手門が造られていた。
現代に残る聚楽第の痕跡
聚楽第はわずか9年で破棄され、その跡地には、西陣の町並みができ上っていく。当時の姿は見ることはできないが、その様子の一端を地形に残る窪みの跡やゆかりの町名に垣間見ることができる。聚楽第大名屋敷跡から金箔瓦が多く出土されている。
秀吉ゆかりの「出世稲荷」
本丸東堀跡や本丸西堀跡には、「此付近聚楽第址石碑」があり、土屋町通中立売通下るの道路に残る傾斜は2m以上の落差が見られる。また、伝承「梅雨の井」跡地が保存されている。以前、千本丸太町下ル東側に「出世稲荷」があったが、現在は大原に移築されている。社伝には秀吉が聚楽第内に勧進した稲荷社であり、関白までに出世した秀吉の故事に因んで「出世稲荷」と名付けられた。境内には芸能関係者が寄進した鳥居・石碑が並んでいる。
城下町にみられる痕跡
城下町を探索すると加藤清正・上杉景勝・黒田如水・蒲生氏郷・千利休などの屋敷跡に由来する町名を見ることができる。
松林寺境内は、外郭南外堀跡と考えられ門前から落ち込みが見られ、北ノ丸北堀跡には、今では石組になっていて、明らかに段差が見られる。2012年の発掘調査で、本丸南堀の石垣が発見された。石垣は東西約23mにわたり確認されたが、今は辰巳児童公園として埋め戻され保存され、発掘の成果の説明版が設置されている。
あの堀川ゴボウも聚楽第から…?
京の伝統野菜に「堀川ゴボウ」がある。破棄された「聚楽第」の堀跡へ埋めたゴミの中に、食べ残しのゴボウが捨てられ、年越して大きく育ったものです。聚楽ゴボウとも言われ、独特の栽培方法は約400年の歴史があります。
秀吉と聚楽第を巡る、激動の9年間
秀吉の身辺に即して時系列に追うと、鶴松の誕生 - その死 - 関白職と聚楽第を甥秀次に譲る - 秀頼の誕生 - 秀次との不和 - 秀次を追放、切腹に追込む - 聚楽第破棄 になります。その間、「聚楽第」はわずか9年でその姿を消したのです。
秀吉が甥秀次を殺したのは、側室淀君が秀頼を産み、秀次が邪魔になったからです。このため秀吉は、我が子に政権を譲りたいと考え、これを渋る秀次に罪を着せて抹殺したのだろう。なんとも身勝手なことであったことでしょうか?
「聚楽第」からの移築ではないかといわれているものが現在幾つかある。福山城の伏見櫓、大徳寺の唐門、西賀茂・正伝寺の方丈、妙覚寺の大門などです。