全国の主な陶磁器の産地には必ずと言って良いほど「陶器祭」「陶器市」があります。
その中で歴史的にも規模的にも「五条坂陶器まつり」は上位を誇っています。
 ただその由来は京都らしく、五条坂という地域の特性から生まれました。ここが他の陶器祭と大きく違い、京都の伝統に基づいた陶器まつりとなっています。お盆(8月16日)を迎えるための西大谷本廟のお墓参り、亡くなった精霊をお迎えする「六道まいり」に来る人々で五条坂が賑わってくる時期でした。また五条坂中ほどにある若宮八幡宮では陶器を集めて作った陶器人形なども制作され、子供が喜ぶ夜店も並び五条坂全体が人々で埋め尽くされました。

陶器まつり昭和29年

陶器まつり昭和29年

陶器まつり昭和29年

陶器まつり昭和29年

先人の思い出

 私は以前父親たちと五条坂陶器まつりを今のように大きく立派にされた先人にお話をお伺いしました。その時に取りまとめましたものを紹介させていただきます。

五条坂陶器市・陶器まつりの思い出  2003年4月 (故池谷氏より)

 五条坂に陶器市 (後の陶器まつり) が開かれるようになったのは、大正九年盂蘭盆会 (うらぼんえ) の頃になると六道(珍皇寺)や西大谷廟へ参る人々が五条坂に多くなってきたため、軒を並べる陶器屋が商品を店頭に出しておけば売れるのではないかと考えたのが発端でした。当時、登り窯の時代で焼成で多く出た大下(不合格品)や売れ残り商品をさげ箱に入れて床下に放り込んだままになっている。そう言った品物を取り出して丁稚に洗わせて店頭に並べ、値札には十分の一くらいの安値をつけていた。まともな商いではなかったので、店主は店の奥でキセルを吹かしながら黙って見ているだけで、儲けは番頭から丁稚まで階級別に分け合い、いわばボーナス変りになっていた。

 その後いつのまにかお参りよりもわざわざ陶器市を目当てに出かけてくる人々が増えて人気を呼ぶようになった。戦争の間、中断した陶器市が復活したのは昭和二十三年のことでした。しかし五条坂は著しくさま変りし、疎開のためもとの姿を留めているのは五条通り北側の家並みだけで、南側は夏草のはびこる荒地と化していた。最初は北側の家並みだけで店頭に五才箱を置き、その上に窯屋のはねものや棚に残った品物を並べただけだった。それでも人々は喜びよく売れた時代だった。
 昭和二十四年に陶器市は陶器祭と改称され、五条坂の中ほどに位置する若宮八幡宮に陶祖を祭り五条坂の陶器業者による陶器祭運営協議会が結成された。この頃より問屋や、窯元が集まった各地域より出店の希望があとをたたず五条通り南側歩道に露店を設ける必要が生じ、現在の形に到っている。

若宮八幡陶器人形

若宮八幡陶器人形

若宮八幡陶器人形

若宮八幡陶器人形

若宮八幡陶器人形

若宮八幡陶器人形

現在の五条坂陶器まつり

 露天商の陶器屋が多かった頃から比べると、若い陶芸家を目指す人々が作品を並べて販売する店に取って代わりつつあります。作者との会話を楽しみ、その人柄と作風を気に入りファンとなり毎年訪れるようになります。また出店者同士のネットワーク、コミュニケーションにより、お互い切磋琢磨し今後の作陶に役に立っていると考えられます。

 ここに「五条坂陶器まつり」の原点とは違う喜びを感じています。特に京都の「五条坂陶器まつり」が、若い陶芸家の目標になるように盛りあげていくつもりです。先人達が作りあげて来たものを次の世代に受け継いでもらうためにも、もうひとふんばりという想いが強く、近年はついつい張り切りすぎてしまいます(笑)。

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谷口 哲也

陶泉窯四代目として京都五条坂に生まれる。
故 浅見 薫先生(日展会員、元京都市工業試験場場長)
より長年にわたり釉薬の指導を受ける。
裏千家流茶道、花傳御幸流華道を修行し、その伝統的造形を生かした
陶芸活動を展開、数々のオリジナル作品を発表。

               

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