関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、1601年(慶長6年)西日本の諸大名に二条城の築城を課し、2年後の慶長8年完成し、家康が初めて入場した。城の規模は今の二の丸の部分であった。
目的は京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所であったが、唐門や二の丸御殿などには、桃山文化が随所に見られる。徳川幕府260年の栄枯盛衰をはじめ、日本の歴史の移り変わりを見守って来た城郭とも言える。
1624年(寛永元年)3代将軍家光は、城を拡張し今の本丸を含めた現状に整備し、後水尾天皇行幸を迎える殿舎造営に着手し、初めて天皇を天守閣に招聘した。
唐門は国宝二の丸御殿への正門で、国の重要文化財である。屋根は檜皮葺、前後に唐破風の四脚門で、彫刻は牡丹に蝶、鶴に亀と松、龍虎など絢爛豪華である。
二の丸御殿は雁行して連なる御殿で、住宅様式の書院造である。狩野派の障壁画や欄間彫刻と飾金具で飾られている。1867年(慶応3年)最後の15代将軍慶喜が、大政奉還の意思を伝えた。

1 縄張は、真北より3度東にずれている?

平安京造営の際、方位は北極星を北に定め、碁盤の目の様にまちづくりが行われた。
家康は、都の既成概念にこだわらずに、船の羅針盤(コンパス)いわゆる方位磁針を使ったので、真北より3度東にずれて縄張りをしたのではないか?
真偽は分からないが、家康らしい都でのデビューではないだろうか?
 
 

2 東大手門   後水尾天皇の行幸時は、単層につくりかえる?

なぜ?
天皇の行幸時に二階建てを一階建てにしたのか!

なぜ?
行幸と言うのか!

二条城の正門で堀川通りに面している。櫓門形式で、屋根は本瓦で入母屋造り、妻は木連格子、棟には鯱が飾られている。門の真上には石落しも備える堅牢な構えである。
寛永3年(1626年)の後水尾天皇の行幸の際には、単層の高麗門につくり変えられ、終われば元の櫓門にもどされた。天皇を頭上の足下を避けるためである。
ちなみに「行幸」とは、天皇が御所を出て、よそへ訪問することで、天皇の訪問が幸福をもたらす儒教的観念から「幸」の字が使われた。
 
 

3 東大手門の鳥の飾金具?

飾金具師の遊び心か?

飾金具師の遊び心か?

探してくぐって下さい!

東大手門の門柱の飾金具に小鳥が描かれている。飾金具師の遊び心かと思うが?探しながらゆっくりと荘厳な大手門をくぐるのはいかがでしょうか? 是非探して欲しい。
 
 

4 大政奉還を宣言した部屋はどこで?

1867年(慶応3年)10月12日~13日にかけ3回「大政奉還」発表

・12日 黒書院で親藩に告げる(慶喜は参加)
・13日 大広間で40藩重臣50余名に告げる(慶喜参加せず)
・13日 その後、質問ある藩が残る(慶喜は参加)

さて 大広間の人形はどれ

教科書や資料になどによく掲載されている「大政奉還図」は昭和10年に描かれた。「二条城大広間・実物大の人形」(上図)は当時の雰囲気が伝わってくる感がある。
しかし、この二つの印象から「慶喜が全国の諸大名を集め、大政奉還を宣言したと」儀式を行ったような錯覚されがちです。

さて 真義は如何に? 想像を巡らせて人形を見たいものだ!!!
 
 

5 二つの天守閣は?家康時代の慶長度天守閣?家光時代の寛永度天守閣?

慶長度の家康時代の一つ目の天守閣は、大和郡山城より、その後 寛永度の家光時代の二つ目の天守閣は、木幡山伏見城から移築されたと言うが?

それぞれ 新築説もある!

家康時代の慶長度天守閣は、工事が短期間で移築らしいが…

家光時代の寛永度天守閣は、後水尾天皇を迎えるためであり、工事期間も十分にあり、新設をではないか?

 

6 本丸櫓門には橋廊下があった  現在、橋廊下はない

後水尾天皇の行幸時、行幸御殿から天守まで地上に降りることなくたどり着けるよう、本丸櫓門の2階部分に二の丸と本丸をつなぐ渡り廊下がつくられた。2階は天皇一行や将軍のみが使用したため、内部は黒漆で赤絨毯であった。
天守閣に登られた天皇は、後水尾天皇が初めてであった。
 
 

7 西門の謎? 大政奉還発表後、慶喜がお忍びで大坂城へ向かった門

最後の将軍慶喜が大阪に脱出した埋門
外堀に木橋が架かっていた
西日本の諸大名を意識した堅固なつくり

大政奉還を発表した後、最後の将軍慶喜が大阪に脱出し、城と将軍家との決別を見た門である。 外堀にあった木橋は取り払われている。
内桝形タイプの埋門となり、柱には門番による落書きが残る。
 
 

8 御金蔵破りはあったのか?

名城をゆく 通巻22号 二条城 2016年(平成28年)小学館発行 に「二条城御金蔵破り一件」が掲載されている。 下記が概要だ。

1797年(寛政9年)二条城の金塊が盗まれるという事件が起こった。当時、町奉行所では、一度たりとも攻められたことのない城なので、外部からの侵入は考えられず、内部の者の犯行と想定し、調査を行ったが、犯人は見つからなかった。

ある日、番士が巽櫓付近を見回りした時、堀の中から光るものを見つけた。そこで、堀に船を浮かべ調べてみると盗まれた金塊の一部であることが判明し、盗人は外部から堀を渡って侵入したことが明確になった。

その後、町人からの通報で突然羽振りがよくなった職人がいることがわかり、家を調べてみると盗まれた金塊が出てきて御用となった。

白状したところによると、堀をたらいで渡り、石垣を登って、石落しから侵入、金塊を着物に包み、紐にくくりつけて堀に沈め、たらいで堀を渡って紐を手繰り寄せて引き上げる、ということを何度も繰り返したということだった。

二条城が唯一、陥落したのはこの時だけであった。

ちなみに盗んだ金塊は仙台で金子に変えて持ち帰り、遊び放題、贅沢三昧だった。

都では、悪い事すれば、何れはばれて、人生が破綻する戒めとされた。

早速 二条城の事務局に問い合わせたところ、そんな事実や資料はないとの返事。
そんな事があれば、一大事で!記録もあるだろうし、処分もあっただろうし?これは、後世の講談師などが面白おかしく創作したのではないかと? 思っている。
歴史には、根拠となる証拠資料が必要である。 うまい話には裏があるのではないか?

東南巽櫓

東南巽櫓

盗賊がたらいで渡ったのはこの辺か?
話は、出来過ぎで 後世の作り話くさい?

  
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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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