前回、「平将門(たいらの まさかど)の乱」について語ったが、今回はそれから100年ほど経った時代の話だ。

ざっくりとおさらいすると、坂東(関東地方)一円を手中におさめた平将門公は、ついに朝廷からの独立政権を宣言してしまい、「朝敵」となってしまい、討ち取られてしまった。

リーダーを失ってしまった坂東武者。しかし朝廷からの支配から独立する夢はまだ諦めてなかったのだ!
 

ドマイナーだけど重要な平忠常の乱

平将門の乱からおよそ100年が経った長元元(1028)年。朝廷に衝撃的な知らせが届いた。

安房国に赴任していた朝廷の役人、安房守惟忠(あわのかみ これただ)が、平忠常(たいらの ただつね)に焼き殺されたというのだ!

平忠常とは、平将門公の伯父にあたる平良文(たいらの よしふみ)の孫だ。忠常は下総国、上総国を掌握していて、残るは安房国となっていた。

忠常側にも何か言い分はあるんだろうが、なにせ記録にはそこらへんのところが全く残っていない。いくらなんでもある日突然焼き殺すなんてことはないだろうから、積もりに積もった何かがあったんだろう、きっと。

しかし、朝廷から派遣された役人を殺してしまったということは、忠常は「朝敵」となってしまったわけだ。そこで討伐隊の長となったのが、平直方(たいらの なおかた)という人物だ!

平直方は、平将門公を討ち取った平貞盛の孫。ここまで全員平姓でヤヤコシイと思うが、下記の図で整理して欲しい。

平忠常と平直方

直方が派遣された理由は、おそらく直方が、忠常と敵対していた常陸国の勢力と関わりが深かったからだろう。直方からしても、この乱に乗じて忠常を討伐すれば、自分が仲良くしている常陸国の勢力が拡大し、自分も恩恵を受けられるという狙いがあったと思われる。

しかし、忠常は手強かった。直方は3年経っても乱を鎮められなかった。

そこで直方の代わりに派遣されたのが、源頼信(みなもとの よりのぶ)・頼義(よりよし)父子! 彼らは頼朝(よりとも)様の御先祖さまだ!

(国立国会図書館デジタルコレクション)ライデン民族学博物館(https://dl.ndl.go.jp/pid/778220/1/17)
ライデン民族学博物館(https://collectie.wereldculturen.nl/?query=search=Deeplink%20identifier=[obj_604639]&showtype=record)

「坂東の調停者」、河内源氏

直方が、3年間頑張っても鎮められなかった乱を、頼信・頼義父子は到着早々に鎮めてしまった! しかも話し合いで! 死傷者ゼロ!! すっげぇ!!

忠常があっさりと頼信公に降伏した理由は記録には残っていない。しかし、頼信公は時の左大臣、かの藤原道長卿の直属の部下。その中でも特に誉れ高い「道長四天王」の1人だ。後ろ盾とするにはこれ以上ない肩書だろう?

頼信公にとっても、忠常が部下になることによって、忠常の持つ軍事力を統括でき、武士の棟梁としてますます力を持つこととなる。まさにwin - winの関係ってやつだな!
 

平直方と源頼義公

一方、先に派遣されていた直方にとっては、頼信・頼義父子に手柄を横取りされてしまった形になるが、関係が悪くなったかというとそうでもない。

直方は武人然とした頼義公を気に入り娘を嫁がせ、鎌倉にあった自分の館をプレゼントしたのだ!! そしてその館は頼義公の子孫が受け継ぐこととなる。頼朝様が鎌倉に幕府を開いた基盤はこうして作られたのだ。

……ちなみに、のちに鎌倉で実権を握る執権北条氏は、直方の子孫を名乗っているが……本当かどうかはかなりアヤシイ。いくらなんでも話ができすぎてるし……。

いや、坂東平氏が桓武平氏であることもアヤシイっちゃアヤシイんだけどさ。正直、坂東平氏を名乗っている家で、確実に平氏だって言えるのは、この忠常の子孫である上総氏や千葉氏ぐらいだなぁ。
 

平常忠の乱後の話

頼信公が乱を平定したのが長元4(1031)年。その5年後の長元9(1036)年には相模守となった。

そして永承2(1047)年には、頼信公一族の本拠地である河内国の守となったが、その翌年に死去した。

嫡男の頼義公は乱の後、その功績により小一条院の側近となる。小一条院は、当時の天皇の先代の子息で、皇位継承権は無かったがそれなり力はある人物だったらしい。

頼義公と直方の娘の間に、3人の男子が生まれる。長男は石清水八幡で元服したので八幡太郎義家(はちまん たろう よしいえ)と名乗った。次男は賀茂神社で元服したので賀茂次郎義綱(かも じろう よしつな)、三男は近江国の新羅明神で元服して新羅三郎義光(しんら さぶろう よしみつ)と名乗る。

義家公の子孫に頼朝様や源義経殿がいる。義綱殿は義家公と並び称される程の力を持った。そして義光殿の新田氏や足利氏がいる。

ちなみに、平忠常の乱の時点で、頼義公は満40歳。この3人の男子が生まれたのは50代の頃だ。

そして、頼義公が60を過ぎた永承6(1051)年、陸奥守に抜擢される。この任官にはとある事情があった。
 

Twitter Facebook

この記事を書いたKLKライター

鎌倉御家人
三浦胤義bot

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 まるで見て来たかのように当時の事を語るが、「そういう設定なんだな」と思って生暖かい目で見て欲しい。

思考がどうしても坂東武者寄りなので、ぶぶ漬けを「どんな料理だろう」とワクワク待ってしまう。

記事一覧
  

関連するキーワード

三浦胤義bot

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 まるで見て来たかのように当時の事を語るが、「そういう設定なんだな」と思って生暖かい目で見て欲しい。

思考がどうしても坂東武者寄りなので、ぶぶ漬けを「どんな料理だろう」とワクワク待ってしまう。

|鎌倉御家人|鎌倉時代/武士/歴史

アクセスランキング

人気のある記事ランキング