また桜の季節がやってきます。京都の桜の名所といえば円山公園や嵐山が挙げられますが,鴨川畔もなかなかきれいです。その上、かつては京阪電車の窓からお花見ができたのです。

走る窓から 花びらが
飛び込む春は 橋の上
京都 三条 鴨川に
招くだらりの 舞妓はん
天満橋から三条へ
ジリリン ピリピリ ポーッポ
京阪特急 京阪特急

これは1958(昭33)年に制作された京阪電車のコマーシャルソングの2番の歌詞です。楠トシエさんが歌い,テレビで流されていました。中年以上の方ならきっと耳に残っておられると思います。今となっては30年以上前の話になりますが,京阪電車は1987(昭62)年に地下化されるまでは,東福寺~三条間では、鴨川と疏水の間を走っていました。当然七条通,五条通、四条通とは平面交差,どの駅も地上にあり、鴨川や疏水に沿って細長いホームが設けられていました。終点の三条駅は,東寄りの1番線はゴーゴーと流れる疏水の上に斜めに作られ,西寄りの4番線のホームは鴨川に張り出して設置されていました。そして五条から北では線路の左右に桜などの木々が植えられ,その間から鴨川や先斗町の家並がちらちらと見えました。歌詞はそんな情景を伝えています。

五条~七条 護岸工事をして線路敷を拡幅

五条~七条 護岸工事をして線路敷を拡幅

そもそも京阪電車は1910(明43)年に大阪の天満橋から五条までの区間で開業しました。枚方から八幡、淀、中書島と来て、伏見の市街地からは疏水に沿って北上します。当時のこの区間は本町通(伏見街道・京街道)に沿って家が立ち並ぶ程度で,それ以外のところは田畑でしたので,比較的容易に線路は敷けました。ところが現在の奈良線(当時の東海道線)を高架で越え,東福寺駅付近から北は家屋も密集し,市内中心部に乗り入れることは容易ではありませんでした。計画当初は,塩小路付近からは疏水の東側を五条まで北上する計画でした。京阪は軌道法(路面電車敷設のルール)によって敷設されたので,適当な道路があればそこに線路を敷くことができたのですが,明治末期の道路はとても電車が走れるような幅ではなく,道幅を広げるには相当数の人家を買収しなければなりません。結局監督官庁の京都府からの助言もあり,疏水と鴨川の間の堤防を鴨川側に4m拡幅してそこに電車を通すことになったのです。その工事の設計には疏水の生みの親である田辺朔郎先生もかかわり,鴨川の川幅をそれだけ狭くしても適切な護岸工事をすれば大丈夫という結論が出されました。同氏は琵琶湖疏水の建設だけでなく,その後も疏水をめぐって力を発揮されたのですね。

三条~四条 撮影:森 俊朗氏

三条~四条 撮影:森 俊朗氏

ところで京都市はこの疏水を暗きょにしてその上に市電を走らせる計画を持っていました。京都府を巻き込んでの紆余曲折の末、京阪がその工事費用を負担するなどして、五条~三条間も疏水と鴨川の間を使って延長されたのは1915(大正4)年のことです。こうして京阪は念願の京都の中心部まで乗り入れることができたのです。

四条駅 撮影:大西 卓氏

四条駅 撮影:大西 卓氏

そして五条以北は、東の宮川町や西の先斗町の景観づくりもあってその堤防に桜の木などが植えられました。年月とともに立派な桜の木に成長し,車窓から手が届く感じで電車の中からお花見ができたのです。上下全ての列車が四条に停車するので、この区間は速度が遅く、それがまた味わい深くしたと思います。また鴨川の西の堤からは川面を挟んで桜と柳の新緑の間を京阪の車体が見え隠れし,東山の山並みも背景とともに実にきれいでした。こんな中で,上記のコマーシャルソングができたのです。もっとも「舞妓はん」は三条ではなく四条のイメージですが・・。ちなみに1963(昭38)年に大阪側が淀屋橋まで延伸されて以降は,歌詞も「淀屋橋から三条へ」に変更されています。
今,京都市内の南北をつなぐ主要な道路である川端通は地下水路化された疏水の部分と京阪の線路敷を道路にしたものです。やはり道端に桜が植わっていますが,かつての京阪電車からのお花見の方が格段に風情がありました。

(2020.3)

大正13年 京都衛戍地図

大正13年 京都衛戍地図

鴨川と疏水の間を走る京阪電車(赤い矢印)

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島本 由紀

島本由紀(しまもとよしのり)
昭和30年京都市生まれ
京都市教育委員会学校指導課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や
鉄道文化を広めたいと思い取り組んでいる。

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