戦国の三英傑 信長、秀吉、家康の霊と墓
信長=キツネ、秀吉=サル、家康=タヌキ?
信長は切れ目のキツネ、秀吉は信長から命名されたのはサル、家康は江戸幕府260年の基礎を築きタヌキと呼ばれていた。真偽は別として、戦国時代の三英傑を動物にたとえた表現でもある。本当に誰がつけたのであろうか?良く考えたものだ。
ホトトギス鳴かぬなら「殺してしまえホトトギス」と言ったのは信長、「鳴かせてみようホトトギス」と言ったのは秀吉、「鳴くまで待とうホトトギス」と言ったのは家康である。彼らの性格を現した言葉でもある。さて 明智光秀なら何と言うのであろうか? 想像をめぐらすのも一興である。「燃やしてしまえホトトギス」と言うのであろうか? 比叡山焼き討ちや本能寺の変が頭から離れないのか…
100を超える戦国大名が群雄割拠していた時代から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が、応仁の乱で荒廃した京の都を次第に復興させた。
織田信長がした復興
信長は、室町幕府足利義昭を奉じて6万の兵を率いて都にのぼってきて、将軍家に敵対する勢力を一掃した。信長は将軍の住まいとなる二条御所の築造や経済を安定させる撰銭令の発行などを行い、荒れ果てた京都の再興に務めた。戦乱の中じっと耐えてきた町衆にとっては信長への期待感は大であったにちがいない。織田軍は京の人々から好印象を得ていった。信長は京の高貴な人たちからも歓迎され、次第に天皇家や朝廷の復興に力をいれた。
豊臣秀吉がした復興
秀吉は、戦国の世を統一し、京の町から争いがなくなった。朝廷から官位も頂き武家政権の礎となる新しい支配システムを確立した。天下人となった秀吉は京都の町を安寧楽土とすべく大改造に乗り出した。都市計画に沿って強制移転を命じ、聚楽第を中心とした武家屋敷を構築し、町の周囲に御土居を築き、洛中洛外に分け、京都は再び繁栄の時を迎えた。人口も17世紀初頭には20万近くまで増えた。北野天満宮で開かれた大茶会では身分に関係なく賑わった。聚楽第に後陽成天皇を招き、晩年には醍醐寺の庭に桜を移植し、盛大な花見を開催した。
徳川家康がした復興
家康は、江戸に幕府を開き、260年余りに及ぶ長期政権の基礎を築いた。京都は幕府の直轄都市になり、江戸、大坂とともに「三都」と呼ばれ発展を遂げた。家康・秀忠・家光の3代将軍は、京都の社寺復興に力を注いだ。清水焼や西陣織などの伝統産業が手厚く保護され、ものづくりの都市として発展した。江戸と京都を結ぶ街道も整備され、全国から多くの人々が京都を訪れるようになってきた。
今の安心安全な京都があるのは、三英傑のおかげであると言っても過言ではない。そこで都に残る彼らの霊とお墓を訪ねて見た。その場に佇むと織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が今でもそっと私たちを見守ってくれている様に思ってならない。
織田信長 進んだ考えを取り入れた戦国大名
天下統一を目指した武将
桶狭間の戦いで今川義元を破る
長篠の戦で本格的に鉄砲を使う
天下布武を掲げる
楽市楽座を認め、経済を発達した
将軍家を復興し、朝廷を保護した
西洋の文化に興味を持ち、キリスト教の宣教師を歓迎した
南蛮貿易を勧めた
京で馬揃えの軍事パレードをした
本能寺の変で自害する 49歳
遺骨のゆくえ?
信長の側近で日記係であった太田牛一が書いた「信長公記」によると、今までドラマで描かれている「弓で応戦し、肘にけがをし、御殿に火をかけ割腹した」この様子は死の直前まで信長に仕えていた女官から太田牛一が直接聞いて書いたので、ほぼ信頼できる。その後の遺骨のゆくえについては一切記述がないのである。
京都市内には信長のお墓が、供養塔を入れれば3ヶ所ある。現在の本能寺(京都市役所南側)と大徳寺塔頭総見院境内にある。本能寺は秀吉の都市計画により強制的に今の地に移転し、規模も縮小され火災に何度もあっているので、遺骨はないであろう。総見院は信長の死後1年後に信長の木像をつくらせて法要したので、遺骨はない。
最後に残るのは、阿弥陀寺である。住職の清玉上人は、織田家と深い親交があり、天正10年(1582年)6月2日本能寺の変の折、本能寺などにかけつけ織田信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を当時に埋葬したといわれる。本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には信長、信忠や本能寺の変で討死した森蘭丸兄弟の墓がある。
焼け落ちた建物からどのように遺骸を持ち出したのだろうか? 信長の遺骸を確実に同定し、持ち出したのか? 燃え残った本能寺の残灰を持ち出して、供養したと考えれば納得いくのだが… 本能寺の変の謎の一つである。
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昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。
|自称まちの歴史愛好家|北野天満宮/今宮神社/千本通/明智光秀/怖い話
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