堀川団地にまつわる物語「戦後最初期の下駄履き住宅団地の誕生」

1.はじめに

京都市上京区の堀川通り沿いに合計6棟からなる細長い3階建ての住宅団地がある。団地の1階は堀川商店街と呼ばれる片側の商店街が形成されている。この6棟の団地を総称して「堀川団地」と呼んでいる。堀川団地は、今でこそ築65年以上が経過した団地であるが、建設当時は戦後最初期の下駄履き住宅の団地という先端性から大いに注目を集め、全国から見学者が後を絶たなかったという。
しかし、時は経ち、1980年頃から建物の老朽化や団地住民の高齢化などが問題となっていた。堀川団地建替えの議論も行われてきたが、なかなか事業がまとまらず停滞の期間が長く続いた。その後、2009年4月に「堀川団地まちづくり懇話会」が設置されたことをきっかけに、少しずつ再生の方針がまとめられていった。そして、2013年に6棟のうち2棟の改修事業が行われ、2020年3月に4棟目の改修事業が完了したところである。

筆者は、前述の「堀川団地まちづくり懇話会」の設置当初から堀川団地の再生に一研究者として長年関わってきた。この「堀川団地にまつわる物語」では、筆者が行ってきた堀川団地に関わる調査研究の成果を交えながら、堀川団地について多面的な視点から紹介させていただく。初回である本稿では、堀川商店街の前身である堀川京極の時代まで遡りながら、堀川団地が誕生するまでの経緯を紹介することとしたい。

写真1.再生後の堀川団地(出水団地2棟)
表1.堀川年表(堀川団地が建設されるまで)

2.堀川団地とは?

堀川団地は、1950〜54年に京都府並びに京都府住宅協会(現在の京都府住宅供給公社)によって建設された戦後最初期の鉄筋コンクリート造による下駄履き住宅団地であり、1階が店舗併用住宅(上長者町団地のみ店舗専用)、2,3階は専用住宅となっている。
図1に示すように、堀川団地は京都市上京区堀川通りの西側に沿って、中立売通りから丸太町通りの間に位置している。団地と言っても、いわゆる郊外にある大規模団地とは異なり、民有地を挟みながら飛び飛びで6棟が並んでいることが特徴である。北から、上長者町団地、出水団地3棟、出水団地2棟、出水団地1棟、下立売団地、椹木町団地という並びになっており、これら6棟の総称が「堀川団地」なのである。
2020年4月現在、出水団地1棟、2棟、3棟及び下立売団地という4棟の改修事業が完了している。また、上長者町団地は、2018年に解体され、今後「堀川アート&クラフトセンター(仮称)」が整備されることとなっている。

図1.堀川団地の立地

3.上京随一の繁華街:堀川京極

堀川団地誕生の経緯を説明するためには、第二次世界大戦より前にさかのぼる必要がある。
堀川団地が建っているエリアは、戦前「堀川京極商店街」(以下、堀川京極)と呼ばれる商店街が形成されていた。この堀川京極は、現在で言うところの新京極商店街のような繁華街だったらしく、1935年(昭和10年)時点で267店舗の商店が立ち並んでいた。
写真2は堀川京極時代の通りの様子を写したものである。現在の堀川商店街とは異なり、西堀川通りの両側に店舗が立ち並んでいる様子が分かる。また、当時としては珍しい鉄骨製のテント屋根が設けられており、現代で言うところのアーケードの役割を担っていたと思われる。

写真2.堀川京極の様子
(出典:京都商工会議所:京都市に於ける商店街に関する調査, 1936)

4.建物強制疎開による堀川京極の消滅

このように上京随一の繁華街として栄えた堀川京極であるが、第二次世界大戦中の第三次建物疎開により、西堀川通沿いの建物が一斉に解体され、その姿を失うこととなった。建物疎開とは、空襲による延焼を防ぐためにあらかじめ建物を撤去し、まとまった空地を確保する事業である。
堀川通りにおける建物疎開は1945年3月に実施され、堀川エリア一帯で2,520戸の建物の除却が行われたと言われている。写真3は、1945年に撮影された堀川通りの様子であり、通り沿いの建物がすべて撤去されていることが分かる。当時を知る地域住民の方によると、「たった3日間で堀川通り沿いの建物が解体された」「子どもたちも強制的に建物の解体作業を手伝わされた」などとお話されており、戦時中の極限的な状況の一端を伺い知ることができた。
写真4は、GHQが撮影した1946年(昭和21年)の堀川通りの空中写真である。この空中写真を見ると、建物疎開によって堀川通り沿いの建物がほぼ全て解体されており、現在の堀川通りと堀川団地に置き換わっていることが分かる。すなわち、建物疎開と堀川通りの拡幅に伴い、間口が広く奥行きが浅い京都としては非常に珍しい形状の堀川団地が誕生したといえる。

写真3.建物強制疎開後の堀川通り(1945年撮影)
(提供:堀川商店街協同組合)
写真4.GHQが撮影した堀川通りの空中写真(1946年撮影)
(出典:国土地理院)

5.堀川団地の誕生

建物疎開によって堀川京極は消滅してしまったが、堀川京極の復興を望む地域の声は大きかったと言われている。堀川団地は、旧堀川京極の商店主や地域の方々の堀川京極復興に対する強い熱意に答える形で建てられた。また、当時は全国的に住宅不足でもあり、京都府においても5万9000戸の不足があったと言われており、住宅不足への対応という狙いもあったと考えられる。
図2は堀川団地竣工当時の「府政だより」である。この記事によると、「京都府住宅協会は、これ(堀川京極のこと)が復興を企図し、そのうち下長者町出水間に三階建三棟鉄筋コンクリート造店舗併用住宅並専用住宅(内専用住宅54戸併用26戸、店舗専用2戸)を昭和25年1月着工、昭和26年9月30日竣工をみたもので、…(中略)… 住宅はいずれも六畳、四畳半、瓦斯、水道、水洗便所の設備を持つ集合住宅…(中略)… この集合住宅は各戸独立住宅または店舗付き住宅を形成しているもので、全国における初めてのものである。各戸はより文化的、且つ衛生的に設備せられ、完全に独立生活営業が出来るのである。」とある。
また、写真5は、1953年(昭和28年)の堀川団地の賑わいの様子である。路上はもちろんのこと、団地の屋上まで人で埋め尽くされている。
これらの写真や写真からも、いかに当時の堀川団地が最先端な団地だったかが伺える。

図2.府政だより1951年11月1日号の記事
写真5.堀川団地建設当時の賑わい(1953年)
(提供:堀川商店街協同組合)

6.まとめ

堀川団地は、堀川京極の復興という地域住民の願いの象徴として誕生したものであり、地域住民にとっての誇れる団地と言える。建設当時のことを知る団地入居者や地域住民に話を伺うと、建設当初の賑わい、入居時の審査の厳しさ、倍率の高さ、団地での暮らしの工夫など、皆さんが嬉々として堀川団地や商店街のことをお話してくださることが印象的であった。
現在までに建物の再生事業は少しずつ進んできたが、地域住民の誇りや記憶も次世代に継承していく必要がある。そのためには、建物だけではなく、団地住民や商店主の暮らしを含めて再生していくという視点が不可欠であり、建物の再生事業が終了した後も団地再生は続いていかなければならない。筆者も微力ながら堀川団地を応援し続けていきたいと考えている。

参考文献 京都商工会議所:京都市に於ける商店街に関する調査,京都商工会議所,1936 垣田悠三子:個人時から見た堀川商店街の変遷,京都大学修士論文,2011.3 高田光雄,大島祥子,土井脩史,生川慶一郎:堀川団地の記憶と未来,2012.4
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この記事を書いたライター

 
住宅計画研究者。博士(工学・京都大学)、一級建築士。
京都橘大学現代ビジネス学部都市環境デザイン学科・専任講師。
京都・大阪を主な研究対象として、これからのストック活用時代における住宅計画のあり方について研究している。

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