月に1~2回、堀川通りを縦断する市バス9番で通勤しています。でも9番のバスに乗るのはけっこう緊張します。なぜって?丸太町通りを北上してしばらくすると聞こえてくる「次は一条戻り橋…」という車内アナウンスにゾクッとすることがあるからです。そこは京都でも有数の魔界スポット。私は特に霊感が強いという訳ではないのですが、京都の歴史を知る者として、「一条戻橋」という言葉の響きに京都独特の闇を感じとってしまうのかもしれません。いったい一条戻橋で何があったのでしょうか。そして、この地では何が「戻」ってくるのでしょうか。
平安時代には30M以上あった一条通り
一条通りの歴史は古く、794年の平安京造営にまでさかのぼります。平安京の北端に位置する一条通りは「一条大路」と名づけられ、道幅も今よりもずっと広く30m以上あったそうです。都の北を守る大路として、時代が移ろい京の町並みが様変わりしたあとも洛中と洛外の境界とされた名誉ある通りといわれてきました。一条通りの東は御所西の烏丸通りから始まります。この地で寛永12年以来400年近くも和菓子を創り続けてきたのが羊かんで有名な虎屋さん。御所の和菓子を営々と受けもってきた老舗です。その虎屋さんから700mほど西に行くと見えてくるのが一条戻橋です。堀川通に並行している「堀川」に架かるこの橋を舞台に京都の闇歴史が描かれました。
橋に何が戻ってくるの?
戻橋はもともとは「土御門橋」がその呼称でしたが、ある伝説を境に「戻橋」と呼ばれるようになりました。その伝説の主役は、平安期に活躍した学者であり貴族でもあった三善清行(みよし きよつら)という、まあまあマイナーな人です。三善は官吏の登用試験(今でいう国家公務員試験のようなもの)を受験しますが見事に落ちてしまいます。そのときの試験官がかの有名な菅原道真で、清行はそのことを根に持ったのか後に事あるごとに道真と対立したという、執念深いとよく言われる私的には実に親近感の持てるエピソードの持ち主です。その三善清行が亡くなり、彼の棺が土御門橋にさしかかったとき、清行の八男・浄蔵が駆けつけました。修行中で父の死に目に会えなかった彼は、どうか息を吹き返してほしいと願いお経を唱えはじめました。すると、何ということでしょう!空に暗雲がただよい雷が響き渡ります。そして、なんとなんと死んだはずの清行が息を吹き返したというのです。まるでドラゴンボールの神龍のようなお話です。以来、あの世からこの世へ「戻」った場所として誰いうとなくこの橋を「戻橋」と呼びはじめたそうです。
この一条戻橋は平家物語でも奇妙な逸話を残しています。平安中期に源頼光(みなもとの よりみつ)という武将がいました。源氏の祖・清和源氏から数えて3代目となる武士で、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治の伝説で知られています。この武勇に秀でた頼光の配下に渡辺綱(わたなべのつな)という者がいました。その渡辺がある夜に戻橋のたもとを通ると、妖艶な女性がひとり佇んでいました。そして家まで送ってほしいと言います。綱はこんな夜ふけに怪しいとは思いつつも、その美貌に鼻の下を伸ばしお持ちかえりでも企んだのか、了承し彼女を馬に乗せます。すると女の身はたちまち鬼の姿に容貌を変え(妖怪人間ベラみたい)、彼の髪をつかんで愛宕山にむかって飛ぶのです。お持ちかえりしようとした(?)綱が逆にお持ちかえりされるわけですね。しかし、綱はさすが自慢の太刀さばきで鬼の腕を斬り落としてなんとか逃げることができた…という話です。
これらの話が本当にあったのかどうか。フツーに考えれば「ない」でしょう。しかし、そういった恐ろしい話の舞台が一条戻橋とされたことには意味があると思います。そもそも一条戻橋は平安京の北東にあり、陰陽道でいうところの鬼門にあたります。鬼門とは鬼の出入口です。ちなみに比叡山延暦寺は平安京からみて北東つまり鬼門にあり、鬼封じの意味をこめて建立されたといわれています。一条戻橋は鬼の出入口ですから鬼がウロウロしているので、ご紹介したような怪奇現象が起こりやすいというワケです。実際、この橋は死んだ人を都の外=洛外へ送り出す葬送の橋として使われていました。つまり、一条戻橋はあの世とこの世の境界だったのです。それゆえ畏怖の念をもって見られていました。そしてこれらの伝説に触発されたのか、以降の時代にも歴史の事実として様ざまな出来事がこの地で起こります。
ジェイソンもびっくりの戻橋伝説
戦国時代、京都周辺で隆盛を誇った三好長慶の家臣に和田新五郎という者がいました。この新五郎が将軍である足利義晴の嫡男・菊童丸の侍女と「不義密通」していたことが発覚。なんと死刑となります。ワイドショーも真っ青の展開ですね。その処刑が「鋸引き」という、ものすごーく残酷な方法で執行されるのです。当サイト「Kyoto Love.Kyoto」はR指定にはなっていませんが、ここでその内容を紹介するのはちょっとアレです。てゆうか、私自身ホラー系がとーっても苦手なのでスルーさせてもらいます。興味のある方はググってみてください。
さらに豊臣秀吉の時代にも血なまぐさい事件が起こります。千利休といえば当代随一の茶人でしたが、豊臣政権にあっては政治面でも秀吉の側近として重用され、絶大な信頼を得ていました。ところが、蜜月の関係だった2人にいつの頃からか溝が生まれ、やがて確執となります。一説には石田三成の陰謀という説もありますが、あっという間に利休に切腹の命が下されました。その利休の首が晒されたのが、この一条戻橋でした(諸説アリマス)。利休の罪は限りなく冤罪に近いものというのが現代の視点ですが、戻橋に晒された利休の無念はいかばかりだったのでしょうか。また、秀吉のキリスト教禁教令のもと、日本人殉教者たちが見せしめとして○○○○されたのもこの地でした。すみません、私こうゆうエグいのが本当に苦手なんで、○○○○でスルーさせてください。
このように、一条戻橋では史実としても多くの血が流され、様ざまな怨憎の念が渦巻く暗黒の歴史があったのです。こうした出来事がさらに一条戻橋の魔界性を増幅させ、人々の間で語り継がれるようになります。それは現代の慣習にまで影響をおよぼしています。たとえば、嫁入り前の女性や縁談に関わる人は、この橋に近づいてはいけないとされました。実家に「戻る」=離婚をイメージするからでしょうね。逆に太平洋戦争のときは、「必ず生きてここに戻ってこれるように」という切なる願いから、出征する兵士を戻橋で見送る光景が見られたそうです。そのほか霊柩車はこの橋を通ってはいけないという言い伝えもあります。故人を安らかにあの世に送りたいという願いなのでしょう。
魔界は人の心が作りだすもの
さて、この一条戻橋をはじめ京都には俗にいう魔界スポットが各所に点在しています。平安といわれた京都が何ゆえオドロオドロしい魔界都市となったのでしょうか。さまざまな説が唱えられているかと思いますが、私は「人間の心」という側面から魔界伝説を捉えてみたいと思います。
そもそも魔界とはなにか。本来は悪魔の世界をいいますが、やがて転じて怨霊や妖怪などの伝説が残された場所とされました。では、実際問題として怨霊や妖怪がいたのか?と問われれば多くの人が「いない」と答えますよね。いっぽうで現代でも多くの人が幽霊を恐れているのもまた事実です。この矛盾の原因はどこにあるのでしょうか。幽霊も妖怪もその人の心の中に棲むもの、つまり見える人にだけ見えるということにあると思います。ではどういう時、どういう人に霊が見えるのか。霊感が強いとかもあるでしょうが、私的解釈としては「後ろめたいものを持っている人」に見えるのが怨霊なのだと思います。四谷怪談を思い出してください。お岩さんの幽霊が見えたのは、トンデモ夫の田宮伊右衛門に罪悪感があったからでしょう。つまり怨みを買うようなことをした人には霊が現れやすい=見えやすいということだと思います。
で、京の都です。平安時代以降1,000年以上も京都は都として栄えました。それは京都に多くの権力者が集まってきたということを意味します。さて、権力者が権力を手にするまでには、さまざまな権力闘争を経てその座につくことが多いはずです。となると、必然的に権力闘争の勝者と敗者が生まれます。その敗者にとって、真っ当な闘いで負けたのであれば納得もいくのでしょうが、そんなキレイごとばかりでは済まされないのが人間社会。そこには権謀術数がはびこり、謀略、だまし討ち、濡れ衣ベッチョリの冤罪etc…なんでもありの世界がありました。とはいえ、人間だれしも良心をもっています。「勝つためには仕方なかった」という自分への言い訳とともに、相手が自分を怨んでいるのではないか、という後ろめたさを持つことになります。それがやがて人の心に怨霊を生みだすわけです。これは京都に限らず人間社会のどこにでもありうることですが、やはり権力が集まりやすい場所のほうが、後ろめたい人が多いはずです。さらにいえば京都人がいつから「イケズ」といわれるようになったのかはわかりませんが、こういった権力争いの際にも京都人のイケズが遺憾なく発揮され、相手の怨みを増幅させた可能性も考えられます。そんなイケズ文化も相まって京都には怨霊うごめく魔界がアチコチに生まれた。つまり魔界とは、京都人の「業」つまり人間の意志による行いが作った世界といえるのではないでしょうか。
さてさて、翻って我が人生を省みると…。
うしろめたいどころか、振り返ることすらはばかられる、あの時この時のイケズな自分がいた記憶が甦ってしまいました。
おーコワ!
今晩ひとりでトイレに行けないかもです。
(編集部/吉川哲史)