葬送の地への変容
前回の投稿原稿「千本通り-冥界への路-」で述べたように、平安京の大内裏北方の船岡山までは貴族たちの狩猟の場であった。しかし、朝廷が衰え始めた平安時代中期には、次第に葬送の地に変容していった。
平安京のメインストリートであった千本通と平安京の北側辺りを千本頭と言った。今でいう千本今出川から船岡山の辺りを指す。
その千本頭周辺のトピックスを綴ってみると、以外にもおどろおどろしい言い伝えがある。
1.上品蓮台寺 土蜘蛛伝説
源頼光は平安中期の武将で、謡曲「土蜘蛛」には、その頼光が、原因不明の熱病で臥してところへ、化身した土蜘蛛ノ精があらわれ襲ってきたので、頼光は銘刀膝丸で斬りつけた。
血のあとをたどって、家来の渡辺綱ら四天王が追って行くと「北野のうしろ」に
大きな塚があって、大きな土蜘蛛があらわれ、これを退治したことが、述べられているが、その塚が、ここにあったといわれ、一名「蜘蛛塚」ともいう。
歌舞伎や能で演じられてきた「土蜘蛛退治」で有名になり、多くの演者が訪れている。
2.阿刀氏墓 弘法大師母御
上品蓮台寺の墓地にある一番大きい五輪塔で、弘法大師の母の生家阿刀氏が建立した。母御は人々が困っているなら何でも聞かれたと伝わる。
当時、病気の中でも肺病は治らないと人々は困窮した。病人の身につけたものを、この墓前で祈祷してもらってそれを焼き、その灰を飲むと全快すると言う信仰があった。
医学治療が未発達な時代、庶民の病気平癒の願望がこのような姿で残っている。時代背景を感じる遺跡である。
3.歯形地蔵 千本鞍馬口上る東
その昔、千本鞍馬口通には紙屋川の支流で、上にのぼって流れる、いわゆる「逆さ川」が流れていた。たもとに一体のお地蔵さんがあり、「逆さ川」の下流におられるので、人々は「逆さ川地蔵」と呼んで親しんだ。
そんなころのこと、近くに夫婦が住んでいた。夫は大工で、仕事一筋のマジメ人間。近所の井戸端会議でも評判で、奥さん連中も口々にほめそやした。妻も自分には出来すぎた夫と思っていたけれど、あまり評判がよすぎるので気が気でない。
「ひょっとして浮気でもしたら」
「いやいや、他の女性にとられるかも・・・」
心配がこうじて、夫の帰宅が少しでもおそいと、出先まで迎えに出るほどの気の使いよう。ある日、夕方から、あいにく空は一天にわかに掻き雲って、しのつく雨。「さぞ、夫が困っているのでは・・・」
妻が迎えにでると、いましも向こうから夫が、美しい娘と相合いガサで歩いてくるではないか。
「人の気も知らないで、いまいましい!」
逆上した妻はつかみかかった。驚いたのは亭主。そのまま、かけ出し、逆さ川の橋の下に逃げ込むと、お地蔵さんの陰にかくれた。追いついた妻は、言葉より先にやにわに肩にガブリとかみついて。
「アッ!」
よほど気が転倒していたのか、妻が夫と思っていたのは実はお地蔵さん。そのうえ、かみついて歯はお地蔵さんの肩にくい込み、そのまま離れない。
たまたま通りかかった老僧がいて、「これはこれは、お気の毒じゃ」と経文を読んで助けた。が、妻はそのまま息がたえてしまった。以来だれいうとなく、逆さ川地蔵を「歯形地蔵」と呼んで。女の嫉妬を戒めたとか。また夫の身代わりになったというので、歯痛治療の信仰もいつしか生まれた。
今でも船岡温泉内には、逆さ川に架けられていた花崗岩製の石橋菊水橋が移築保存されている。
現代社会に生きる人間として、この話をどのように受け止めたら良いのか? 教訓とも言える話である。
4.千本焔魔堂(引接寺) 紫式部の供養塔
小野篁が祠を建て閻魔法王を安置し、死者の魂を弔った。死者の魂をお送りし、塔婆供養と迎え鐘を用いて先祖の魂を再びこの世に迎え供養した。
現在でもこの風習は残され、お盆に「お精霊迎え」として行われている。塔婆流しの北側には紫式部の供養塔がそっと建っている。以下の口伝が言い伝えられている。
紫式部は源氏物語の中で不倫や盗み、殺生を描いた罪で地獄に落とされたとかで、そんな夢を見た住職が成仏させようと造ったと伝わっている。それ以降住職の枕元には地獄に落ちた紫式部は現れなくなった。
5.石像寺(釘抜地蔵)
弘法大師(空海)の開基と伝えられ、「くぎぬきさん」として親しまれている。
地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩立像は弘法大師の作と伝えられ、もとは諸々の苦しみを抜き取るという信仰から苦抜地蔵と呼ばれていたが、それがなまって釘抜地蔵となった。
一説には、手の病気に苦しむ商人の夢に地蔵菩薩が現れ、手に刺さっていた二本の恨みの釘を抜いて救ったことから釘抜地蔵と呼ばれるようになったとも伝えられる。
境内には、弘法大師三井の一つという加持水がある。また、この地は鎌倉時代初期の歌人・藤原定家、家隆が住んだ所ともいわれており、定家らの墓と伝えるものがある。
6.大報恩寺(千本釈迦堂)
おかめ塚由来
鎌倉時代の初め長井飛騨守高次という洛中洛外に名の聞こえた棟梁とその妻阿亀が住んでいました。
そのころ千本釈迦堂の本堂を建立することになり高次が総棟梁に選ばれ、造営工事も着々と進んでいた。しかし、高次ほどの名人も信徒寄進の四天柱の一本をあやまって短く切り落としてしまいました。
困り抜いている夫に、御亀(おかめ)は足らない部分を桝組によって補ってはと提案しました。この着想が結果として成功をおさめ、見事な大堂の骨組みができあがりました。
厳粛な上棟式が行われたがこの日を待たずして、御亀は自ら自刃して果てました。
女の提言により棟梁としての大任を果たし得たという事が世間にもれきこえては・・・「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。
棟梁の高次は上棟の日に、亡き妻の面を御幣につけて飾り冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれ、また、この阿亀の話を伝え聞いた人々は貞淑で才智にたけた阿亀の最期に、同情の涙を流して菩提を弔うため境内に宝筐院塔を建立し、だれ言うとなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。
現在、京都を中心として使用されいるおかめの面の上棟御幣は阿亀の徳により「家宅の火災除け」家内安全と繁栄を祈って始められたものです。
7.湯沢山茶くれん寺(浄土院)
豊臣秀吉が北野大茶会につく途中、
のどが渇いたので浄土院に立ち寄ってお茶を所望したところ、住職は己の茶道の未熟さを恥じて秀吉が、何度お茶を所望してもさ湯ばかり出したという。
俗に湯たく山茶くれん寺と言われた。
千本頭周辺の地図
千二百年も続いている都である京都には、伝承も含めて様々な歴史がある。
あらためて不思議で興味深い都である。