4.堀川京極の盛況ぶり

堀川京極が盛況ぶりについても、当時を知る地域住民の方からお話を聞くことができた。

堀川京極は、界隈の女中、番頭、丁稚の仕事終わりのたまり場となっていたそうで、夕方になると堀川京極をウインドウショッピングしながら散策する若者で賑わっていたようだ。
このように堀川京極を散策することを、当時「堀ブラ」と呼んでいたという。
仕事終わりに「堀ブラ」をする若者が多く、お客さんのピークは20-21時、どのお店も22:30頃までは営業していたようで、堀川京極は夜遅くまで賑わっていたと言われる。

店舗の中には、洋食屋、干しバナナ、アイスキャンディなど当時としては珍しいお店もあったという。
商店街の中はチンドン屋がねり歩き、活況したにぎやかな様子が伺えた。
また、常磐館や中央館と呼ばれる映画館も地域の方々には印象に残っていたようで、子どもたちが映画をタダ見しようとして怒られたことなど、子ども時代のエピソードを交えてお話いただいた。


5.建物疎開後の堀川京極

写真5.建物強制疎開後の堀川通りの様子

写真5.建物強制疎開後の堀川通りの様子

(提供:京都府住宅供給公社)

写真5に示すように、建物疎開により堀川京極は消滅したというのが一般的な史実である。
それでは、堀川京極の商店の人たちはどこに行ってしまったのか、地域の方への聞き取りを元に解き明かしたのが図3である。
この図では45店舗の移転先を明らかにしているが、堀川通りの西側に移転している店舗が多いことが分かる。
当時、第二次世界大戦による疎開に伴いこのエリアには空き家が多く存在していたようであり、その空き家に移転したようである。
この図に示すように、堀川京極は建物疎開によって周辺地域に面的に広がっており、これが堀川京極の最終的な姿と言える。

図3.堀川京極の店舗の移転先

図3.堀川京極の店舗の移転先

(作成:垣田悠三子)

6.まとめ

今回は、古写真や地域の方へのヒアリングを元に戦前の堀川京極とはどのような商店街であったかについて紹介した。
堀川京極は建物疎開で消滅したのではなく、堀川京極は地域の中で面的に広がっていたと解釈することができる。
その後、旧堀川京極の店舗が20店舗堀川団地に入居し、堀川商店街に継承されている。
現在では、その頃から営業を続けているお店はほとんど存在しないが、堀川京極は消滅したのではなく、形を変えながら現代に継承されたと言えるのではないだろうか。

なお、今回の原稿は、主に2010年度に京都大学髙田研究室で実施した調査結果に基づいている。
調査にご協力いただいた地域住民の方々のおかげで堀川京極の様子を明らかにすることができた。
また、この調査を中心的に行ってくれたのは垣田悠三子氏であり、彼女の丁寧な聞き取りがなければここまで堀川京極のことを解き明かすことはできなかったであろう。
ご協力いただいた地域住民の方々、そして垣田氏への感謝の意を表しつつ、今回の原稿を締めることとしたい。

参考文献
京都商工会議所:京都市に於ける商店街に関する調査,京都商工会議所,1936
垣田悠三子:個人史から見た堀川商店街の変遷,京都大学修士論文,2011.3
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この記事を書いたKLKライター

住宅計画研究
土井 脩史

住宅計画研究者。博士(工学・京都大学)、一級建築士。
京都橘大学現代ビジネス学部都市環境デザイン学科・専任講師。
京都・大阪を主な研究対象として、これからのストック活用時代における住宅計画のあり方について研究している。 

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土井 脩史

住宅計画研究者。博士(工学・京都大学)、一級建築士。
京都橘大学現代ビジネス学部都市環境デザイン学科・専任講師。
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