京の都には、多くの天皇陵・皇后陵や親王陵が、盆地の縁に点在する。
親王とは天皇の子供をさす。
幼少の頃には、そこがどの様な処なのかも知らずに、冒険心から潜入していた記憶がある。
大変大胆な事をしてしまったと、今でこそ猛反省をしている。
天皇陵には宮内庁からの制札に 一、みだりに域内に立ち入らないこと 二、魚鳥等を取らぬこと 三、竹木等を切らぬこと明記されている。
現在住んでいる北区周辺に点在する天皇陵・皇后陵や親王陵など訪れ、調べまとめてみると、知らなかった事が多くあった。
読者の皆さんもお参りし、そっと手を合わせて見れば、新しい気持ちになるのではないでしょうか?
尚 天皇陵、火葬塚名は宮内庁の制札に従った。
1.第66代一条天皇・第67代三条天皇火葬塚
金閣寺前を北上約500mの「鏡石」前にある。
一条天皇は第64代円融天皇の第一皇子で7歳即位。
一条天皇の時代、清少納言・紫式部・和泉式部によって、平安女流文学が開花した。
天皇自身も文学に深い関心を示し、音楽にも堪能で能くしたという。
また、人柄は温厚で好学だったといい、多くの人に慕われた。
体調不良で寛弘8年(1011年)に譲位、出家した直後32歳で崩御。
三条天皇は第63代冷泉天皇の第二皇子。
眼病を患い退位後、寛仁元年(1017年)42歳で崩御。
2.第67代三条天皇北山陵
金閣寺前を北上約200ⅿにある。
三条天皇は、第63代冷泉天皇の第二皇子として降誕された。
寛仁元年(1017年)に崩御された。
実算42歳、生涯ご不幸であったと言う。
御陵も久しく所在不明であったが明治22年(1889年)治定された。
3.第65代花山天皇 紙屋川上陵
西大路通りに面するわら天神の東へ約200ⅿにある。
花山天皇は、第63代冷泉天皇の第一皇子であり17歳で即位。
若いころから奇矯な振る舞いが目立ち、狭い清涼殿の庭で馬を乗り回したという。
和歌・絵画・建築・工芸などに秀でていた。
寛弘5年(1008年)41歳で崩御。
4.第70代後冷泉天皇火葬塚
千本北大路北東角にある。
後冷泉天皇は、第69代後朱雀天皇の第一皇子である。
この頃、世の中では「末法思想」がはびこり、疫病や災害などが末法の表れとされていた。
京でも頻繁に火災が起こった。
治暦4年(1068年)44歳で崩御。
5.第76代近衛天皇火葬塚
千本北大路下ルライトハウスの西側にある。
近衛天皇は、第74代鳥羽天皇と愛后・得子(後の美福門院)との間に生まれた第九皇子、父に溺愛された。
生来病弱で17歳で久寿2年(1155年)崩御。
天皇が崩御した際、死因は崇徳上皇による呪詛だったと、美福門院が鳥羽法皇に言いつのった。
6.媞子内親王火葬塚
船岡山北側北大路通りに面して南にある。
媞子内親王は、第72代白河天皇の第一皇女で、永長元年(1096年)21歳で崩御。
船岡山の北にて火葬された。
7.第102代後花園天皇火葬塚
堀川通り鞍馬口下ル東に面している。
後花園天皇は、伏見宮第3代貞成親王の第一皇子として生まれる。
この時代幕府足利将軍が目まぐるしく変わり、8代将軍義政は遊興に走り、これには天皇さえ戒められている。
応仁の乱の最中、文明2年(1470年)室町殿にて52歳で崩御されたが、ご遺骸は悲田院のあるこの地に火葬された。
塚は堀川通りに面しているが、うっそうとした樹木が生い茂っている。
8.天皇塚
北大路通堀川西入北側にあった小円墳であった。
堀川天皇中宮篤子雲林院陵とも言い、圓融天皇火葬地とも言われる。
その小円墳は開発で破壊され、今の北図書館が立つ地かその東側の地であったかと思われる。
9.般舟(はんじゅ)院陵 伝式子内親王塚
千本今出川東にある嘉楽中学校の間、今出川に面して北側にある。
後土御門天皇典侍源朝子陵、後花園天皇典侍嘉楽門院藤原信子陵など、一陵三分骨所十墓からなり、皇妃の多くは当院に葬られた。
嘉楽中学校の校名は後花園天皇典侍嘉楽門院藤原信子の嘉楽から名付けられた。
これらの陵は般舟三昧院が伏見より移建された際に、移されたものである。
伝式子(しょくし)内親王塚は般舟院陵の域内西方にある。
樹木のうっそうと茂る小墳の上に小五輪石塔が置かれている。
周辺には数個の石仏が並んでいる。
樹木に覆われた小高い墳の中央にある小さい五輪石塔が親王塚である。
嘉楽中学校の今出川に面して正門があるが、その横に「禁裏道場跡」の大きい石碑がある。
秀吉は文禄3年(1594年)伏見城を構えるにあたり、現在地に般舟院を移建された。
寺は引き続き天台・真言・律・浄土四宗兼学の禁裏道場として栄えた。
その後歴代の尊牌を泉涌寺に移されたので、寺地を分割上地して嘉楽中学校とした。
10.第78代二条天皇陵 香隆寺陵
平野神社の西、等持院の東にある。
二条天皇は第77代後白河天皇の第一皇子であったが、父子との仲はうまくいかなかったと言う。
永万元年(1165年)御年23歳で崩御された。
龍安寺裏山の小高い山を朱山といい、その南方山麓には七つの天皇陵などが点在する。
山全体が天皇陵で占められ、開発が及んでいない。
設置された当時のままの自然環境に恵まれ、京都盆地を見渡せる絶好のビューポイントである。
11.第69代後朱雀天皇 圓条寺陵・第70代後冷泉天皇 圓教寺陵
龍安寺境内の北に圓条寺陵がある。
後朱雀天皇は、第66代一条天皇の第三皇子である。
長元9年(1036年)兄である第68代後一条天皇の崩御に従い、28歳で即位した。
この頃、比叡山では争いが激しくなり、京にもそれが飛び火していた。
天皇は「自分の徳がないせいだ」と強く自責の念を抱いていたという。
また、治世の末期には天然痘が大流行し、天皇も感染した。
様々な治療を試みるも容態は好転せず、寛徳2年(1045年)に37歳で崩御。
後冷泉天皇と後三条天皇については「4」と「1・2」参照して下さい。
12. 第68代一条天皇 圓融寺北陵・第73代堀河天皇 後圓教寺陵
龍安寺の脇から山道の階段をかなり登った場所にあります。
山上にあり京都を一望できる絶景ポイントです。
同じ御陵に複数の天皇が一緒に祭られ、あまり見られないケースです。
堀河天皇は、第72代白河天皇の第二皇子で、8歳で即位する。
天皇の性格は上品かつ優雅であった。
誠実な人柄で人望も厚く、家臣に「末代の賢王」と称さるれほど。
その治世は穏やかで、民衆も安心して暮らせるものだったという。
音楽、管弦を好み、熱心に練習した。
和歌にも堪能だったという。
嘉承2年(1107年)在位のまま29歳で崩御。
皇太子の崇仁親王が即位した。
後一条天皇は、第66代一条天皇の第二皇子で、9歳で即位し、藤原道長が摂関となった。
道長は生後間もないこの孫(後一条天皇)を抱きオシッコをかけられ喜んでいる。
藤原道長の3人の娘が同時に后位につき「この世をばわが世とぞ思う望月のかけたることもなしと思えば」と歌った道長の全盛時代であった。
長元9年(1036年)29歳で崩御。
13.第64代円融天皇火葬塚
円融天皇は第62代村上天皇の第5皇子である。
11歳で即位、子は第66代一条天皇。
西暦2年(991年)33歳で崩御。
14.第69代後朱雀天皇皇后禎子内親王 圓乗寺東陵
禎子内親王は第69代後朱雀天皇皇后の子供であり、父は第67代三条天皇である。
長男は、第71代後三条天皇。
寛治8年(1094年)崩御。
天皇陵などを見て廻っての感想は、龍安寺裏山にある天皇陵は設置された当時の様子が窺われるが、その他の天皇陵の周りには都市開発により住宅が迫っている。
設置当時は長閑な田園地帯であったろうに、さぞかし眠っている天皇さん方はビックリされていることであろう。
明治22年(1889年)宮内庁により治定された天皇陵、火葬塚であるが、天皇塚で述べたように都市開発により不明な陵や塚が無残にも破壊されたと思われる。
尚 朱山七陵に寺院の名称が記されているが、以前にあった衣笠山を背景にした寺院名である。
それぞれの寺院は、天皇の御願により建立されたものであり、火葬された後、遺骨を納められたので寺院名が記されたものと思われる。
それぞれの陵は宮内庁の管轄であるが、領内には事務所があり職員がおられる陵もある。
今回は10・11の陵を訪れた時、親しくお話を伺うことができ、大変参考になった。また、
陵を廻るなかで天皇の私生活での振る舞いにも思いを巡らせたのも楽しかった。