「1番地はどこへいった??」-京都の「町」の不思議(その3)-

京都の独特の住所の話題の第3回、今回は「番地」のお話です。
○○町1番地から順に2番地、3番地とつけていく、あの「番地」です。

こちらは左京区の一乗寺、白川通から「詩仙堂」への地図です。町名の下線と同じ色でその町の最初と最後の番地とその位置を書きました。ここではどの町にも1番地があって、最小で30、最大で58までの番地がついています。日本の多くの地域でもこのような番地のつけ方が普通ではないでしょうか。

ところで京都では周辺部の新市街地と中心部の旧市街地とでは住所の表記が全く違うことを第1回でご紹介しました。この一乗寺のあたりは昭和6年に京都市に編入された新市街地になります。
では京都の旧市街地での番地のつけ方はどうなっているのでしょうか? というのが今回の話題です。(「旧市街地」やあとから使う「両側町」などについては、第1回の「京都の住所はなぜ長い?」をご参照ください)

▶︎「京都の住所はなぜ長い?」-京都の「町」の不思議(その1)-

500番台の番地しかない「菊水鉾町」

それではさっそく旧市街地の番地のつけ方を見てみましょう。旧市街地の代表として祇園祭に多くの山鉾が建つ室町通にある山鉾保存会の住所を取り上げてみました。

さて写真のハガキに書いたのがこのうち3つの山鉾の保存会の住所で、地図はその周辺です。ハガキの「鯉山町」「山伏山町」「菊水鉾町」の3つの町はいずれも町の真ん中を南北に室町通が貫いてその両側町になっています。町の南北の長さはおよそ110mです。

さすがに祇園祭の山鉾由来の町名が多く、また番地の数も先ほどの一乗寺あたりの10倍以上です。「菊水鉾町588番地」いかにも京都の中心部らしい住所ですね~。
でもちょっと待ってください! この番地、おかしいと思いませんか?

菊水鉾町は長さ約110mの両側町、1番地から順に番地をつければこの間に少なくとも588軒の家があったことになります。
110mの道の両側に588軒? 1軒あたりの間口の広さは37cm!
これは明らかにおかしいですよね。では番地が飛び飛びになったり途中の数字がごっそり抜けていたりするのでしょうか?
そこで実際に菊水鉾町にはどんな番地があるのか調べてみました。すると一番大きな番地はこの588番地、一番小さな番地は566番地、つまり菊水鉾町には565番地より小さい番地がない、もちろん1番地もないのです! 1番地はどこへいったのでしょうか?
 

「番地」から浮かび上がる「謎の単位」

ところで先ほどのハガキをもう一度見ると、菊水鉾町の北隣の山伏山町には544、その北隣の鯉山町には522という番地があります。なんだか近い数字ですよね?
そして調べてみると鯉山町の番地は504から535番地まで、山伏山町は536から565番地まで、そして菊水鉾町は566から588番地までときれいに数字がつながっているのです。
さらにまわりの町の番地を調べると次々と番地がつながっていき、20あまりの町を経てついに1番地がある町にたどり着きました!

1番地があったのは菊水鉾町から500mほど北西、三条通の西洞院東入の「釜座(かまんざ)町」で、この町には1番地から37番地まであります。逆に菊水鉾町からつなげて一番大きな番地は東隣の「笋(たかんな)町」で最大の番地は691番地、これを越える番地は近くではもう見つかりませんでした。

結局、菊水鉾町のまわりでは全部で27の町の中を1番地から691番地までが延々とつながっていたのです。つまりここでは番地は町単位ではなく「27の町をまとめた(謎の)単位」でつけられていたのです。下の地図にその27の町の位置とその町にある番地の範囲(赤数字)を書きました。(なお番地の数字は区画変更や道路拡張などによって欠番がたくさんあります)

そしてこの番地のつけ方、一見バラバラのようですが、実はとても規則正しくつけられています。小さい番地の町から順につけた地図の○数字を追ってみてください。
北西から始まって、最初に「横の通りの両側町」を北から南へ、①②③が三条通、④⑤⑥が六角通、⑦⑧⑨が蛸薬師通、⑩⑪⑫が錦小路通の両側町、次に北西側に戻って「縦の通りの両側町」を西から東へ、⑬~⑱が新町通(両脇の図子⑯⑱を含む)、⑲~㉓が室町通(西側の図子⑲を含む)、㉔~㉗が烏丸通の両側町、となっているのです。(図子とは向こう側に通り抜けられる路地のような細い道のことです)

ではこのような番地のつけ方は京都の旧市街地共通のものなのでしょうか? ということで頑張って中京区の旧市街地(おおむね大宮通より東)にある401の町すべての番地のつながりを調べてみました。

下にあるのが中京区の旧市街地全体で番地のつけ方を調べた地図です。
するとすべての町で上の例と同じく、個々の町単位ではなく最小で22、最大で31の町をまとめた(謎の)単位ごとに番地がついていました。地図の実線で囲った範囲がそれぞれの単位の所在地で<>内がその中にある町の数です。こうした単位が( )で連番をつけたように中京区の旧市街地には15か所あります。

この「20~30くらいの町が集まって番地を束ねている(1)~(15)の謎の単位」っていったい何なのでしょうか? 特に「京都人」を自認されている方、下の地図をにらんでみてください。

この地図を見て「あっ、その単位ってひょっとしたら『○○』のことじゃないの?」ってピンときた方は生粋の京都人ですね!
京都には実際に住んでみないと分からない「番地を束ねている謎の単位」があるのです。しかもこの単位は住所だけではなく京都市民の日常の暮らしに深くかかわっています。この答がすぐに分かるかどうか「京都人の見分け方」に使えそうですが(笑)、読者の皆さんはこの『○○』が何かお分かりでしょうか?

「学区」単位でつけられていた旧市街地の番地

いきなり答を言ってしまいますね。
「20とか30とかの町でできた番地を束ねている謎の単位」とは・・・『学区』です!

京都市の旧市街地では「番地は『町』単位ではなく『学区』単位」でつけられているのです。最初に調べた菊水鉾町のまわり、1番地のある釜座町から最大番地のある笋町までの27の町は地図の(12)の範囲ですが、ここはぴったり「明倫学区」という学区に一致しています。
ちなみに前ページの地図の(1)~(15)までの範囲を言いかえるとそれぞれ次の学区になります。

(1)梅屋(うめや)学区    (2)竹間(ちっかん)学区(※) (3)富有(ふゆう)学区
(4)教業(きょうぎょう)学区(5)城巽(じょうそん)学区(6)龍池(たついけ)学区
(7)初音(はつね)学区   (8)柳池(りゅうち)学区 (9)銅駝(どうだ)学区
(10)乾 (いぬい)学区    (11)本能(ほんのう)学区 (12)明倫(めいりん)学区
(13)日彰(にっしょう)学区 (14)生祥(せいしょう)学区(15)立誠(りっせい)学区
(※ 読み方は中京区のホームページより)

そしてあらためて地図を見るとどの学区でも北西の端にある町から順に番地をつけています。つまり「1番地がある町」とは「その学区の北西の端にある町」だったのです!

ただ最後の番地の位置は学区の南東の端が多いものの例外もかなりあります。学区内の番地をつける順番も明倫学区のような「まず横の通りの両側町、次に縦の通りの両側町」という方法だけでなく、南北にくねくねと蛇行しながら番地をつけていく学区もあってさまざまな個性があります。

※ただし明治時代の学区の統合などにより、現在の旧市街地の60の学区のうち一部の学区には一つの学区の中に番地の並びが複数あったり北西の端以外の場所に1番地があったりします。
例外となるのは、京極・淳風・仁和・滋野・室町の5学区です。

旧市街地での住所表示の上で「学区」の名前はいっさい表に出てこない、いわば影の存在です。でも番地はその学区を単位につけられているのです。


ホントに行方不明になりかけた「1番地」も…

ここでちょっと脱線。先ほどの地図で一つ不可解な場所があります。右上の(3)の個所、つまり「富有学区」です。ここはどう追いかけても「鍵屋町64番地」より下の数字にたどりつけないのです。つまり富有学区では63番地より小さい番地がごっそりなくなっているのです。実をいうと各学区の北西端の町にあることを知っていながら「1番地はどこへいった?」と書いていたのですが(笑)、冗談抜きで1番地が行方不明になった学区に出くわして、こればかりはあわてました(笑)。

ところが・・・番地の並びと全く関係のない場所に富有学区の1番地はありました。
京都地方裁判所敷地内の弁護士会館が「桝屋町1番地」つまり富有学区全体の1番地だったのです(地図の黄色の★印)。でも富有学区の北西端の町はあくまでも鍵屋町で、桝屋町にある一連の番地は323~338番地です。この町内に突然1番地だけ現れるのです。富有学区の1番地は以前からこの場所にあったのでしょうか? 1番地を探しているとこんな謎にもぶつかります。

結局、最初に一乗寺地区でご紹介したように京都の新市街地は一つの「町」ごとに番地をつけているのに対して、旧市街地は町が20とか30とか集まった「学区」ごとに番地をつけていたのです。その結果、旧市街地には「上京区紙屋川町1049番地」のような4桁の番地も存在しています。京都では住所表記だけでなく番地のつけ方も新市街地と旧市街地では全く違っているのですね。

ということで、ずいぶんマニアックに走った「番地」の話題はここまで。
次回は旧市街地でこのような番地のつけ方になった理由も含めて、ここで姿が見えてきた京都の「学区」についてお話ししたいと思います。

<参考文献>
・今尾恵介『住所と地名の大研究』(2004 新潮選書)
(下京区で同じように町ごとの番地のつながりを調査されています)
・ゼンリン住宅地図 京都市4 中京区
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この記事を書いたライター

 
京都市中京区生まれ、北区紫野育ち、民間企業に37年間勤務
祇園祭の魅力が忘れられず、定年を機会に埼玉県から帰郷、大学院に入学し民俗学を学ぶ
祇園祭を中心に京都の祭り・民俗行事、平安京の歴史、京都の地理・町の形成などを研究
京都府文化財保護課での祭り行事調査に参画中

現在、佛教大学非常勤講師、京都民俗学会理事、日本民俗学会会員

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