
歴代朝廷を恐れさせた崇徳天皇の怨霊はついに白峯神宮に還御される
孝明天皇による白峯社創建はなぜ?
昭和39年(1964)の崇徳天皇800年式年祭に昭和天皇は勅使を使わされました。
崇徳天皇は「日本史上最も恐れられた怨霊」と恐れられ、百年ごとの式年祭前後の数年間には決まって国家的な動乱が起こったためです。
孝明天皇は幕末の国家動乱を避けるため、崇徳天皇の神霊を京都に奉還し鎮魂する白峯社の創建を決めました。
父帝の遺志を継ぎ、明治天皇は慶応4年(1868)に讃岐から京都へ、700年ぶりに崇徳天皇の神霊を迎えられました。
宣命には、「京都の新営にお移り頂き、天皇と朝廷を末永く守護して頂き、また奥羽の賊軍を速やかに鎮圧し、天下が鎮まるようにお助け頂きたい」とありました。
時は戊辰戦争の最中で、朝廷は崇徳天皇の怨霊が奥羽列藩同盟に味方する事を恐れていたようです。
白峯社は昭和15年に昭和天皇より、白峯神宮と改称されました。
京都には他にも崇徳天皇の鎮魂施設があり、祇園の中心部(甲部歌舞練場東側)に崇徳天皇御廟があります。
院の崩御後、寵愛厚かった阿波内侍が御遺髪を都に持ち帰り、この場所に塚を築き御霊を慰めたものと伝えられています。
現在ではこの御廟で、御廟祭がおこなわれています。
崇徳天皇と父帝との不和はなぜ
崇徳天皇はなぜ祟る怨霊になったのでしょうか。
崇徳天皇は第74代鳥羽天皇の皇子として生まれましたが、皇后璋子(たまこ)は第72代白河天皇の寵愛が厚かったとされます。
鳥羽天皇は皇子を叔父子(我が息子ながら実は祖父の子供=自分の叔父)として嫌っていました。
鳥羽天皇は白河法皇から皇子への譲位を迫られ、皇子は5歳で第75代崇徳天皇となります。
白河法皇の崩御後に鳥羽上皇は院政をふるい、崇徳天皇20歳の時異母弟へ譲位を強いて、近衛天皇(第76代)が即位します。
崇徳院は自身の院政も、かなわなくなりました。
病弱であった近衛天皇は17歳で崩御されたが、またも崇徳院の第一皇子が帝位につくことはなく、同母弟の後白河天皇(第77代)が即位します。
この時期には崇徳院ではなく崇徳上皇ですが、煩雑なので以後にも崇徳院と表記します。
後白河天皇との不和が保元の乱を生む
崇徳天皇の在位期間には白河院と鳥羽院の院政があり、歌道に専念するしかありませんでした。
「瀬を早み……逢はむとぞ思ふ」はこの頃の和歌です。
しかも、武も文にも劣る弟の後白河天皇が帝位についたことで、不満を一層募らせます。
鳥羽院が病気になるも、崇徳院の見舞いは拒絶され、鳥羽院の崩御後の初七日にも崇徳院は臨幸できず、対立は一層深まります。
そして崇徳院は藤原忠実・頼長、源為義・為朝などを味方に保元の乱を起こしましたが、後白河法皇には藤原忠通、源義朝、平清盛がはせ参じ軍事的にも優勢でした。
その結果上皇方は敗れ、崇徳院は讃岐国に配流となりました。
讃岐への崇徳院の護送は過酷なもので、殆ど囚人同様で上皇への礼儀を欠いたものでした。
崇徳院は讃岐国司庁の綾高遠の館近くの仮御所、雲井御所に入られ約3年間を過ごされます。
この間綾高遠の庇護を受け比較的平穏に過ごされ、地元民との交流もありました。
綾高遠の娘との間に一男一女が生まれますが、いずれも早世し菊塚、姫塚に埋葬されました。
その後完成した鼓ケ岡御所に移られますが綾高遠の館とも離れ、不自由な生活環境となり、仏事にのめり込むようになります。
五部大乗経を拒否され遂に怨霊となる
讃岐国で崇徳院は9年過ごされましたが、京都に戻ることは叶わないと心を落ちつかせ、五部大乗経を自筆されました。
3年がかりで自らの血で書写した自筆の経を京に送られるも、天皇はそれを拒絶します。
拒絶されたことを崇徳院は怒り恨み、「後生菩提のためとて書き奉る五部大乗経の置き所さえ許されねば、今生の怨みのみにあらず、後生までの敵にこそ」と言って、舌先を噛み切ってその血で経文の軸に、諸々の天部への願文を書きつづりました。
「日本国の大摩縁となり、天下を乱り国家を悩まさん」と誓って、以後髪も剃らず爪も切らず、生きながら天狗の姿となって46歳で8月26日に没しました。
この間の事情は諸説あり信じる資料が少なくて明らかでありません。
仁和寺にはこの大乗経は無事収められていますが、説話の中では怨念話がどんどん膨らみ、崇徳院の恐怖のイメージが信じられていきます。
「保元物語」には、崇徳院は「罪を償おうとして書写した血書経を三悪道に投げ込み、その力を以って、日本国の大魔王となり、天皇を民とし、民を天皇としてみせる」とあります。
崩御された崇徳院のご遺骸の取り扱いを京都に問い合わせる間、まだ暑さの厳しい時期でもあり城山近くの八十場が殯(もがり)宮とされました。
八十場では冷たい清水が湧き、その冷水でご尊骸を納めた甕を冷やして指示を待ちました。
白峯寺に葬るようにとの指示が届き、ご尊骸を納めた柩は白峯寺に向かう途中高屋付近で急に天候が変わって雷雨となり、柩を石の上に置き天候の回復を待ちました。
晴れたので柩を持ち上げると、石が真っ赤な血で濡れていたと供の人は驚いたと伝わっています。
後日村人達はその地に高屋神社を建て、崇徳院のご霊をお祀りした故事に因み「血の宮」と呼び、その血に濡れた石は今も境内に残されています。
崇徳院の玉体は白峰寺の西で荼毘に付されました。


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生年月日:1945年(昭和20年)1月5日
現職
京都府立大学 名誉教授、タキイ財団 理事、NPO 京の農・園芸福祉研究会 理事長、(一財)京都園芸倶楽部 会長
主な経歴
1969年 京都大学大学院農学研究科修士課程修了、香川大学・京都府立大学教授を歴任
1982年 京都大学農学博士
1984年 園芸学会賞奨励賞
2008年 京都府立大学農学部定年退官・名誉教授
1985~1986年 ケニア・ジョモケニヤッタ農工大学へ出張(国際協力機構)
1993~1994年 英国ロンドン大学を中心に欧米7カ国 へ出張(文部省長期在外派遣)
1997年 デンマーク植物と土壌科学研究所へ出張(学術振興会派遣研究員)
この間に欧米、アジアなど約30カ国での国際シンポジウムに参加すると共に、留学生10名に学位論文の指導を行う
主な著書
Q&A 絵で見る野菜の育ち方、農文協、2005
野菜の発育と栽培、農文協、2006
ブロッコリーとカリフラワーの絵本、農文協、2007
ブロッコリーの生理生態と生産事例、誠文堂新光社、2010
ブロッコリーとカリフラワーの作業便利帳、農文協、2010
はじめてのイタリア野菜、農文協、2015
「おいしい彩り野菜のつくりかた」(監修) 農文協、2018
|京都府立大学 名誉教授|京野菜/伝統野菜
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