水面に映る薄紅の花々が幻想的な「虹の湖」
「虹の湖」というおとぎ話に出てきそうな名前をお聞きになったことがあるだろうか。南丹市美山町にある大野ダムのダム湖がそう呼ばれている。
初めて訪れたとき、満開の桜を鏡のように映す湖を見て「ここに虹が加わったなら絵画や映画を超えるドラマチックな光景だろう」と思ったものだ。あとでよくよくガイドブックを読めばこのダム湖に7つの橋が架けられていることから名づけられた呼称だそうだが、薄紅の花々が山と湖面に倍になって広がるようすは、私をおとぎ話のなかにいるような夢見心地にさせてくれた。
日本のダム湖百選にも選ばれている大野ダムが完成したのは昭和36年(1961)のこと。そのとき湖畔の河川敷に1000本を超えるソメイヨシノや大島桜などさまざまな桜が植えられ、いまでは関西有数の花見スポットとして知られるようになった。
「ささやきの小径」と名付けられた散策路は、春には桜の花がトンネルのように頭上を覆う。今年は残念ながらコロナ禍で中止となったが、恒例の「大野ダムさくらまつり」には遠方からも多くの人が訪れる。
紅葉の美しさもまた見事で、約6キロの散策コースはゆっくり歩いてめぐればおよそ3時間。トレッキングやサイクリングをする姿もみかける。公園にはアスレチック遊具も設けられ、芝生広場でお弁当を広げる家族連れも多い。また、ダム湖一帯はバスフィッシングのスポットとしても有名で、四季を通じてレジャーを楽しむことができる。
どこまでもついてくる車窓の向こうの由良川
観光公園として人気の大野ダムだが、その完成は由良川流域に住む人たちの昔からの悲願だった。大雨のたびに繰り返される洪水には、この一帯を治めた戦国武将・明智光秀や細川忠興も頭を悩ませたという。
そもそも由良川というのは流域がかなり広い。まだ駆け出しのライターだったころ、京都縦貫道も丹波あたりまでしか開通しておらず、美山や綾部、宮津までは車で行くにも地道をひたすら走った。電車の場合もJR山陰本線の時刻表とにらめっこしながらの日帰り強行軍。心身ともにヘトヘトな行き帰り、車や電車の車窓から折々に見え隠れしていたのが由良川だった。
当時はなんて長い川なんだろうとぼんやり眺めるだけだったが、改めて地図で確かめてみた。水源は京都・滋賀・福井の府県境にある丹波高地で、流路には三つのダムが造られており、その最上流が大野ダム。そして南丹市から西に向けて綾部市へ流れ、福知山市で北東へ流れを変えて舞鶴市と宮津市の境で若狭湾に注いでいる。鉄道も川に沿って敷設されており、どうりで府北部を走れば由良川にたびたび行き当たるはずだ。
若狭湾と京・大坂を由良川で結ぶ夢の計画があった
流域の歴史を辿ってみようかと調べていたら、興味深い資料を見つけた。由良川と京・大坂を結ぶ水運計画があったというのだ。
江戸初期、瀬戸内海に注ぐ加古川と由良川を結び、日本海へと繋げる輸送ルートが大坂の商人によって計画された。途中の峠道を拡張して陸送するというプランだったという。また、淀の商人からは若狭湾から由良川を経由し、日吉あたりで陸送して大堰川から桂川、淀川へ運ぶという経路も計画された。いずれも航路確保のための河川工事が川筋の村々から反対にあうなどして頓挫したようだが、幾度となく計画が御上に申請された資料が残っている。
考えてみれば車や電車のない時代、たくさんの物や人を運ぶには舟がいちばんで、水路はいまで言う高速道路の役割を担っていた。もちろん日本海側からの物資は下関から瀬戸内海を経由して大坂まで運ばれていたし、若狭湾―福知山間については古くから舟運が盛んで、丹後半島から京・大坂へ続く街道もある。ただ、海路は荒天時には危険を伴うし、陸路は長距離になれば運べる量も限られてしまう。由良川という長い流路を活用・整備し、もっと大規模な物流の幹線路を造れないかというのは当然の思考の結実だっただろう。
明治に入って舟運が鉄道に取って替わられ、戦後にはモータリゼーションの波がやってきて由良川水運計画は歴史の影へ埋もれてしまった。航路は幻となったが、いまはそのルートを辿るように京都縦貫道が流域のまちを結んでいる。高速道路でひと走り、今年は密を避けて桜を楽しんでみようと計画している。