新型コロナがいろいろ変異しながら、依然、世界各地で猛威を奮っています。アフターコロナやウィズコロナなどマスコミの表現が変化しているように、コロナに対する社会の態度がずいぶん変わってきたように思います。人類は長らく伝染病に振り回されてきましたので仕方がないことかもしれませんが、この状況はこれからも続きそうです。そこで今回は、明治以降に伝染病対策として京都市が営んできた病院の足跡を巡ってみたいと思います。舞台は『京都市立病院』です。


ご案内

京都市中央卸売市場を北に抜け、五条通を西に行くと、左手に京都リサーチパーク(KRP)が現れる。中央卸売市場からも背の高いASTEM棟と球形のガスタンクがシンボリックに見えたが、七本松通に立つと東と西の街区に18棟のビルが建ち並び、京都のビジネス拠点となっていることが分かる。

京都市中央卸売市場からの眺め

京都市中央卸売市場からの眺め

KRP駐車場からの眺め

KRP駐車場からの眺め

さらに西に進むと、右手に京都市立病院が見えてくる。五条通沿いに緑地帯が設けられ、そのうしろで五条通に平行して病院棟が2棟並ぶ。その西側には、いつでも看護に行くわといわんばかりに、化粧直ししたばかりの京都看護大学が建っている。

京都市立病院(五条通から)

京都市立病院(五条通から)

京都看護大学

京都看護大学

この街区は、総合的な医療・保健衛生・福祉機能の拡充や災害時の拠点機能の強化等による都市拠点としての機能向上を図るため、京都市高度医療・保健衛生福祉地区地区計画が2007(平成19)年に決定された。この中で病院施設の高度集約化を図るため、高さ制限を31メートルに緩和し、病院機能の充実と救急災害活動スペースの創出を図ることとした。
この決定から3年後に病院整備事業が始まり、13(同25)年に新館(現北館)と院内学級「わかば」を開設、翌年に本館改修工事完了、15(同27)年に救急・災害医療支援センターが完成し、事業が完了した。

京都市立病院

京都市立病院

ところで京都市立病院はいつからここにあるのだろう?「京都市立病院広報誌『やすらぎ』2016冬」(創立50周年)には、京都市立病院は1965(昭和40)年に京都中央市民病院と市立京都病院を統合し、京都市立病院として開業したとある。前者の京都中央市民病院とは、京都市が48(同23)年に日本医療団(*1)の京都府中央病院を買収し新設したものだ。

後者の市立京都病院は、明治以降の伝染病対策に関わる長い歴史がある。スタートは「避病院(ひびょういん:隔離病院)」であった。
明治初期、西南戦争で入洛した兵士らによりもたらされたといわれる伝染病のコレラが、市内一円に広がり多くの犠牲者をだした。この時京都府は、内務省の虎列刺(コレラ)病予防心得に基づき対策を実施し、避病院を設けて患者の隔離・収容措置をとった。当初、避病院は東福寺や大徳寺など人里離れた寺院の境内などで仮設されることが大半であったが、市制が始まる1889(明治22)年には、市内に上京区立避病院(後に聚楽病院)と下京区立避病院(後に日吉病院)の二つがあった。

明治末期に京都市は、度重なる伝染病の流行から、日吉・聚楽の両病院を統合しより完全な避病院を建設しようとした。その候補地となった葛野郡西院村では、地元村民がこぞって反対運動をはじめたことから、西院村にとって少しでも影響が少ない土地へ変更した上で、1913(大正2)年に建築工事が始まり、2年後に竣工した。これが京都市立病院の前身の「市立京都病院」である。
第二次世界大戦終戦後の市営病院には、15(同4)年に創設された市立京都病院のほかに、戦時下に日本医療団がつくった京都府中央病院を市が戦後買収し、新設した中央市民病院があった。この二つの病院を65(昭和40)年に統合し、現在地で京都市立病院ができたのである。このように市営の病院には、明治以降の社会状況を反映した複雑な歴史があったわけだ。

この機会に、丹波口駅周辺の土地利用の変遷を、明治以降の地図で巡ってみよう。まず明治中期の地図(仮想地形図)には、島原の西に南北に延びる御土居が描かれ、それが七条通と交差するあたりに京の七口のひとつ「丹波口」があったと考えられる。次に、大正元年の地図(正式地形図)には1897(明治30)年に開業した山陰本線が描かれ、島原の南側に「丹波口駅」が書き込まれている。この駅は山陰本線高架化にともない五条通南側へ移動している。山陰本線の西には、驚くことに京都競馬場(*2)の書き込みがある。現在の大阪ガスと京都リサーチパークのあたりだ。

明治中期の地図

明治中期の地図

(仮製地形図:国土地理院所蔵)

大正元年の地図

大正元年の地図

(正式地形図:国土地理院所蔵)

大正11年の地図

大正11年の地図

(都市計画基本図:京都大学文学研究科所蔵)

大正11年の地図(都市計画基本図)には市立京都病院が描かれ、山陰本線の東側に京都瓦斯会社(現大阪ガス)の書き込みがある。また、御土居跡あたりから山陰本線の間には建物がなにも建っていない。1927(昭和2)年になって、このあたりに中央卸売市場が造られた。
このように丹波口駅周辺は、大正時代以降、市民生活に欠かせない都市施設が急速に造られていったのである。

Twitter Facebook

この記事を書いたKLKライター

京都市文化財保存活用・施設整備アドバイザー
松田 彰

 
京都市文化財保存活用・施設整備アドバイザー
京都大学工学部建築学科卒、同大学院修了
一級建築士

1957年生まれ
1982年4月から京都市勤務
2018年3月に京都市都市計画局建築技術・景観担当局長で退職
2018年4月から現職

著書:「花街から史跡まで 散歩でハマる! 大人の京都探訪」(リーフ・パブリケーション)
共著:「京都から考える都市文化政策とまちづくり」(ミネルヴァ書房)
   「『京都の文化的景観』調査報告書」(京都市)

記事一覧
  

関連するキーワード

松田 彰

 
京都市文化財保存活用・施設整備アドバイザー
京都大学工学部建築学科卒、同大学院修了
一級建築士

1957年生まれ
1982年4月から京都市勤務
2018年3月に京都市都市計画局建築技術・景観担当局長で退職
2018年4月から現職

著書:「花街から史跡まで 散歩でハマる! 大人の京都探訪」(リーフ・パブリケーション)
共著:「京都から考える都市文化政策とまちづくり」(ミネルヴァ書房)
   「『京都の文化的景観』調査報告書」(京都市)

|京都市文化財保存活用・施設整備アドバイザー|西京極/文化都市施設/運動公園




アクセスランキング

人気のある記事ランキング