延暦25(西暦806)年、桓武天皇は崩御します。
平安京から都を移すことは許されないと遺言し、皇子 安殿親王(あてしんのう)もそれを受け入れます。
親王は即位して平城(へいぜい)天皇となりますが、その際に父帝の遺言通り、平安京を都とすることを宣言します。
これで安泰…と思われたのも束の間。
平城帝は、4年後の西暦810年(弘仁元年)9月、平城京に都を戻すといい始めるのです。
平安京にとって、最初の危機でした。
何があったのでしょうか。
平城天皇は体調が優れず、在位3年で弟である神野親王(かみのしんのう)に皇位を譲り、太上天皇(上皇)となり奈良へ隠棲しました。
神野親王、すなわち嵯峨天皇です。
結果的に、平安京には嵯峨天皇の朝廷が。
奈良には、平城太上天皇とその側近が並び立ちました。(二所朝廷)
平城帝の体調は回復します。
が、こんどは入れ替わりに、嵯峨帝が病に倒れました。
上皇は弟から政権を回収(重祚)しようと考え、同時に、平城京へ再び都を遷す、つまり遷都を計画します。
810(弘仁元)年9月6日、ついに平城京遷都の勅令が発されます。
一説には、平城天皇の息子たちが皇位に就けるどうかについて、平城天皇派と嵯峨天皇派の間に対立があった、という見解もあります。
平城天皇派は、畿内に近い大国、越前、近江、伊勢の三カ国に息のかかった国司(現代の知事に相当)を送り込み、勢力を扶植しようとしました。
嵯峨帝は、兄に従うように装い、奈良平城京の宮廷整備を手伝うために、将軍 坂上田村麻呂を遣わすなどしながら、反抗の機会を伺いました。
嵯峨帝側の情報が平城側へ漏れぬよう、独自の命令体型を構築するなどして、準備を進めたのです。
京都と奈良に立った兄・弟の対立抗争。
これを、平城太上天皇の変、もしくは薬子の変といいます。
結果として、朝廷を支えた重臣たちは、弟である嵯峨天皇を支持。
坂上田村麻呂も、その一人でした。
坂上田村麻呂。
東北地方の遠征、いわゆる「蝦夷征伐」で戦功を挙げた将軍で、征夷大将軍という官職を帯びた日本史上二人目の人物として有名です。
蝦夷の民が騎兵戦術に長けていたため、征夷軍は何度も苦戦していたのですが、彼が副将として参加した桓武帝期 第二次遠征以降、朝廷が蝦夷に対して優位に立つようになります。
田村麻呂が主将を勤めた第三次遠征では、蝦夷の首領たちを降伏させて連れ帰るという戦果を得ています。
嵯峨天皇派は、坂上田村麻呂が協力したことで、大きなアドバンテージを得ることになりました。
彼らは平城天皇派を抑え込むべく、武力行使を開始します。
嵯峨帝は上皇の腹心である藤原仲成と、その妹、薬子の追放を下命。
また、東国と畿内を繋ぐ関所3箇所を閉鎖させます。
これは平城派にとって、明確な敵対行為でした。
平城太上天皇は、この措置に「大いに怒り給いて」奈良を離れ、東国で兵を募って対抗しようとします。
9月11日早朝、平城京出発。
「諸司并びに宿営の兵、尽く皆(平城天皇に)従う」。
『こうした上皇・薬子等の動向は、百数十年前に起こった「壬申の乱」で、大海人皇子が(中略)東国へ向かった故事と二重写しに見えるであろう』(「坂上田村麻呂」吉川弘文館より)
しかし、壬申の乱再来とはなりませんでした。
嵯峨天皇は坂上田村麻呂に事態の収拾を託しました。
田村麻呂は、宇治や山崎、淀に軍勢を置いて占拠するとともに、さらに美濃道(東海道か?)から回り込んで、平城太上天皇の行く手を遮ります。
宇治と山崎などを抑えたというのは、ひとつには、当時の主要な交通路である、淀川・桂川・宇治川などの淀川水系を封鎖する狙いでしょう。
これによって、平城天皇一派は、大和の北側を抑え込まれるとともに、大和と近江、越前の最短連絡路を絶たれました。
これは、平城天皇一行の移動経路を制約するとともに、近江などから平城派に同調者が出ないよう、阻む措置でもあったと思われます。(伊賀~甲賀を経て山伝いに移動する道は残っていたでしょう。ただしこれも後で田村麻呂によって抑え込まれます。後述します)
嵯峨天皇派の機敏な行動により、平城天皇派は分断されることになります。
大和から伊勢へと陸路、山を超えて移動しようとしたのは、私には、「他の道を抑えられ、そうせざるを得なかった」ようにも見えます。
太上天皇の片腕であり、北陸道監察史の地位にあった藤原仲成が捕らえられ、殺害されます。
太上天皇自身も12日に嵯峨帝に呼応した軍勢に補足され(指揮官は不明)、敗北を悟り、平城京へ戻って髪を剃り、引退することになるのです。
内戦は未然に防がれました。
坂上田村麻呂にとっては、生涯最後の大きな仕事でもありました。
平城天皇が権力を奪い返そうとしたのは、愛妾である藤原薬子一派に心を奪われ、そそのかされたからだ…と言われており、「薬子の変」という呼び名は、そこから来ています。
藤原薬子は中納言 藤原縄主の妻でした。三男二女に恵まれ、ついに娘の一人が皇太子 安殿親王に嫁ぐことになり、薬子は付き添いとして宮仕えに上がります。
しかし、親王が寵愛したのは、妃ではなく、母の薬子でした。
当時の倫理観としても問題ある行為だったようです。
父帝である桓武帝は怒り、薬子を追いださせますが、二人の仲は断ち切れるようなものではありませんでした。
安殿親王が平城天皇として即位すると、我慢はここまでとばかりに薬子を呼び戻します。
薬子への寵愛の深さが見て取れます。
と同時に、平城天皇が父・桓武天皇の意見を素直に聞き入れる人でなかったことも、わかると思います。
それは彼の政策にも表れており、律令制の役人を大幅に整理し、参議を廃止して観察使を置き、地方政治についての献策を行わせるなど、桓武時代に大きな負担を受けて破綻した国家財政と民力の回復を、基本理念としていました。
これは平城天皇の父への反発と見る向きもあれば、父帝が最後に示した「徳政」の方針に沿うものだという意見もあります。いずれにしても、独自性の高い政策ではありましたが、平城帝の治世が短かったために未完に終わっています。
平城天皇の歴史的評価は、このような過程で立場を失ったために高いとは言えません、むしろ、かなり低い評価をされて来ました。
しかし事績をたどると、平城天皇は政策の妥当さは評価が分かれるものの、意欲的な統治を行っています。
女性関係だけに左右されて、物事を決めるような人物ではありませんでした。
責任を薬子に負わせることは、むしろ主体的な統治者としての平城天皇を貶めるものである、この事態はあくまで彼自身の意思によって起こされている…という意見があり、「平城太上天皇の変」という呼び方が提唱されています。
これを受けて、この原稿に「平城太上天皇の変」という副題を付けています。
さて、嵯峨天皇派の鎮圧によって内戦は回避されました。
私は、変の経緯から、京都盆地が優れている点、とくに交通について奈良盆地よりも勝っている点が垣間見えるように感じました。
ここまでを前編とし、後編では京都盆地の地理条件について話したいと思います。
それは、なぜ奈良に都が戻らず、京都に定着したのかという問題へと、繋がっていきます。