今回から3話に渡って、武士とは何か、どういう背景のもとに成立し発展したのかを説明していきます。
第1回目は、平安~鎌倉時代の武士が、馬に乗って弓で戦う「弓騎兵」だったこと、武士が生まれる前提として、いわゆる征夷戦争、東北地方に住む蝦夷と呼ばれた人々との戦いがあったことを解説します。
寛仁元(1017)年3月11日。
この日、書き留められた日記に、物騒な事件が記されています。
京の都は即位したばかりの後一条天皇の行幸を受け、賑わっていました。
清少納言は、宮中を引退して尼となり、兄の元に滞在していました。
兄の名前は清原致信(むねのぶ)。朝廷に仕える官吏であるとともに、武士の郎党でもありました。
六角福小路というところに邸宅があったそうですが、「福小路」という道は心当たりがありません。無くなったのでしょうか。別の本には六角富小路と書いてあり、表記変化もしくは書き間違いかもしれません。
その清原致信の邸宅に、敵対する武士団が襲撃してきます。
7~8騎もの騎馬と10人余りの歩兵といいますから、刺客というよりは、「小部隊」でした。
彼らは致信を弓で射殺すと、その頭部を切り取って立ち去ります。
居合わせた清少納言は「私は出家した尼です」と命乞いしますが、なかなか信じてもらえず、ついには衣服を脱いで証明しなければならなかったとか。
清少納言の兄は、武士団同士の抗争に巻き込まれて死んだのです。
下手人の名前には諸説あります。
しかし、首謀者の名前ははっきり記録されています。
源頼親(みなもとの よりちか)。
武士団として勃興しつつあった清和源氏の一員です。
兄は、源頼光、といえば分かる人がいるでしょうか。能・狂言その他でも有名な、あの鬼退治の頼光。頼親はその弟です。
頼光らは、物語の中では勧善懲悪の英雄ですが、史実の源氏は都の中でこんな血なまぐさい抗争を行っていたのです。
源頼親は当時、大和国(奈良県)の領地を巡って清原致信の上司(藤原保昌)と対立していました。
清原致信、つまり清少納言の兄は、上司の命令を受けて、頼親に繋がる人物を殺害していました。先に手を出したのは致信だったわけです。
致信殺害事件は、いわば敵方からの報復でした。
源頼親はまもなく朝廷から処分を受けます。
右馬頭と淡路守の職務を解かれました。
それだけです。
抗争の行きがかりとは言え、仮にも朝廷に仕える官吏を殺害しておきながら、公職を追放されただけ。
今で言う刑事裁判を受けることもなく、しかも2年後にはこの職務さえ取り戻すことになるのです。
当時、藤原道長が日記を付けていました。この一連の事件についても道長自身が書き残しています。(御堂関白記 寛仁元年3月)
ただし、清少納言のくだりは説話集『古事談』によるそうで、道長の日記に比べて信頼性に差があります。殺害事件は史実としても、清少納言のピンチは、噂に尾ひれがついて面白おかしく脚色した話かもしれません。
道長は、他の条で、源頼親をこうも表現しています。
「殺人上手」。
武力抗争を起こしておきながら、地位を失うでもなく、しれっと元の地位に返り咲く。
なるほど、「上手」なのでしょうか。
この事件から気がつく点が幾つかあります。
・清和源氏ら武士の一党は所領などを巡って対立抗争を起こしており、ときに武力行使に訴えることがあった
・朝廷の処分は中途半端で、武士団の私闘を抑え込めていない
・殺害手段は刀ではなく弓だった
弓。
平安時代、武士がもっとも重視した武器は、弓でした。
桓武天皇が、在位期間を通じで戦った東北地方の蝦夷(えみし)たちは、巧みに馬を乗りこなし、馬の上から弓を放つのに長けており、これが彼らの強さの秘訣になっていました。
征夷軍はこの弓を武器とした騎兵、「弓騎兵」に苦しめられたのです。
それから数百年。
天皇の子孫でもある平氏・源氏の武士たちが、まるで蝦夷の男たちと同じように、馬を自在に操りながら、的に向けて弓を射る、すなわち「騎射」の技を競い合っていたと、桓武帝が知ることがあれば、何と思ったことでしょうか。
野蛮に染まってしまったと嘆いたでしょうか。
それとも、世の中の移り変わりに好奇心を刺激されたでしょうか。
征夷の戦い後、「征服された人々を差別してはならない」と布告した桓武天皇です。あるいは、後者だったかもしれません。
いずれにせよ、私たちが知る武士、特に平安~鎌倉の武士たちは、弓をメインウェポンとした騎兵、弓騎兵でした。(室町時代以降は戦い方が少しずつ変化していき、最後には鉄砲の時代を迎えます)
武士の技術を「弓馬の道」と表現したのは、その名残です。
刀はサブウェポン、弓が使えなくなった場合などに用いる副次的な武器でした。
私見ですが、日本の武士が弓騎兵中心になったのには、蝦夷の軍と戦ったことが影響を与えていると感じています。
『坂東では弓馬の戦法が発達し、騎兵型武者が広汎に出現したが、この弓馬の戦法は実に、蝦夷の戦法であり、坂東の兵が征夷の過程で学び取り、自家薬籠中の物としたのであった』
(古代末期の反乱 草賊と海賊 林陸郎 歴史新書3 教育社)
・東北地方への遠征で蝦夷の弓騎兵の強さに直面し、対抗するために朝廷側も騎射技術を向上させた
・東北地方が制圧されると、蝦夷の兵士が捕虜などとして連れ帰られ、貴族の私兵などとして取り立てられ、体制の中に組み込まれた
この二つの要因があったことでしょう。
ともかく、戦術的に有用であったからこそ、端的に言うなら「強かった」からこそ、騎射の技が広まったのです。
さらに大鎧や毛抜形太刀などで重装化し、改良を加えた結果が、武士なのです。
朝廷は東北地方の異文化圏を征服しました。しかし、征服した側が、された側の習俗に染まったのは興味深いことではありませんか。
もし桓武帝時代の東北遠征がなければ、武士は違う姿になっていたでしょう。
戦いとは、言い換えれば、究極の交流でもあります。
敵手に勝つためには、相手のことを研究し、命をかけてしのぎを削る。時には真似ることも必要です。
征夷戦争を通じて、蝦夷のエッセンスは日本に取り込まれたのです。
いわば、武士とは征夷戦争の落とし子ではなかったか。そう思っています。
その武士はどこから出てきたのか。
これには諸説あって議論が分かれています。
・東北遠征後に設置された志願兵制度「健児」が発展して武士になった
・健児制度導入後、治安が悪化したため、地方在住の自営農民が武装して武士になった
・貴族たち、特に桓武平氏や清和源氏などの武芸を家業とする者たちが地方の私領(荘園)を経営しつつ勢力を伸ばし、武士団を形成した
・征夷の前線基地となった東国では、軍馬の飼育、人民の軍事教練、武器の蓄積など、征夷のための軍備が長年積み重ねられており、これらは武士が現れる基盤となった
どれが正解と決めるのは難しく、かつ、それぞれが複合的に絡み合っていたようにも思えます。
いずれにせよ、自然発生的に各地に生まれた「武士」が、互いに結びついて組織化し「武士団」として成立するためには、指導者が必要でした。
その立場を担ったのが、桓武平氏や清和源氏などの武家の棟梁でした。
武士とは何か、第1回目はここまでとし、2回目は桓武平氏を中心に、3回目は清和源氏を中心に、武士が勃興していく様子を語りたいと思います。