毎年夏山に行くが、今年も栃木の方まで出かけた。もう歳も取っているので、ちょっと温泉に入る楽しみもある山行である。ゆえにザックにテントを担ぐわけでもないので、キャリーバックで出かけ、アタックザックでの登山となる。リーダーに一応、ガラガラで行ってもいいのかを尋ねたが、それをキャリーバックと理解できずで、なにそれと尋ねられた。その人はコロコロと呼んでいた。また、ゴロゴロと呼ぶ人もいて、お互い笑っていた。 
 

こうしたオノマトペの京ことばもある。それは、「がたがた」ということばである。こんな使い方である。「お盆休みまで『がたがた』してまして……」という具合である。意味としては、「お盆休みまで忙しくしてまして……」と言っているのである。「がたがた」は「忙しい」を表している。お盆休みは正月休みとともに、誰もが公認の特別休暇で、何もかもが一端休止となる。帰郷をする人も多く、久しぶりに仲間同士で旧交を温め合う時でもあるのに、忙しくてと言ってしまえば、何か不快な思いにさせるようにも聞こえるところを、「がたがた」ということばで納めてしまうのである。相手の受け止めに配慮したことばなのである。

「がたがた」は『日葡辞書』にも出てくるが、「物が風などによって立てる音の形容」と説明している。まさに風の音の説明だが、同じ風の音でも「かたかた」では、その強さが伝わって来ない。「がたがた」、それは自分の忙しさを、何でもない、つまらない忙しさに変えてしまうことで、いわゆるへりくだった意味合いを醸し出すこととなる。現在では「ばたばた」ということばに忙しさを与えているが、京都の人としては、そんなこれ見よがしなおおぴらな言い方にはちょっと抵抗を感じるように思う。

そんな大人に対して、もう夏休みは終わってしまったが、ゆったりとした夏休みを過ごした子どももいただろう。子どもによれば、昼夜逆転している子どももいただろう。親は、『もう学校始まるのに、いつまでも「ごくたれめ」でいたら、学校行かれへんで』と声を荒げる。朝が起きられない子どものことを「ごくたれめ」「ごくたれ」などと言うのであるが、それは単に寝坊の子どもを指すのではなく、朝の寝起きが悪く、やっと起きても、なんだかんだとだらだらしている子どもの行為までもを含めてのことばである。「ごく」は極道の「極」で、道楽、放蕩、なまけものなどという意味で、「たれ」はそんな人を軽く見ることばである。「め」は目である。明るいうちは覇気のないとろんとした目でいるが、夜になるとぱっちりと輝く目、朝に弱く、夜に強い人も指すが、とりわけ夏休みなど、携帯のゲーム目となるそんな子どもが多くいるように思われる。

それとは逆に、夏休みに入ると途端に元気になる子どももいる。朝も早くから起き出し、虫取りや魚釣り、プールなどとじっとしていられない子どもである。そんな子どもには、『学校がないと、朝もはよから「げんぎんな」子やな』などと、まわりの者も呆れ顔である。「げんきん(な)」ではなく「げんぎん(な)」である。「げんきん(な)」は、利害関係で割り切る、まさに現金であるのに対して、「げんぎん(な)」は利害関係で割り切れない、なにか人間味あふれる要素が含まれるのである。

そんな夏休みには、子どもはよくお使いにも行かされた。お使いとは、今でいう買い物である。私の小学生の頃は、今のようにエコバッグなどはなく、買い物かごであった。それも豆腐などの水気のものもあるからだろうか、荒い縄目で編んだようなかごであった。今から思い返すと、おしゃれのようにも見えるが、当時はダサいかごであったように感じられた。そんなお使いに行くとき、おばあちゃんからは、『「きょろ」してたらあかんで……』、『「きょろきょろ」してたらあかんで……』、『「きょろさん」してたらあかんで……』と3通りの声がかかる。「きょろ」とは、落ち着きのない人のことであるが、この3段階の違いについては、「きょろ」は大事なお使いゆえ、さっさと帰ってくることであり、「きょろきょろ」は、少しくらいの冗談はゆるされるお使いであり、「きょろさん」は、慌てなくても、無事に帰ってくればよいお使いのことである。子どもは、そのことばでお使いの軽重を理解するのである。

そんな子どもの様子で思い浮かべるのは、昔、百貨店のおもちゃ売り場などでは、何かを買ってもらえなくて、駄々をこねる子どもをよく目にしたものだが、最近はそんな子どももとんと見かけなくなった。激しいものなら、床に寝そべっての抵抗であるが、そんな子どものことを「ごんた」「ごんたくれ」などと言った。そのことばは、何も駄々をこねるだけでなく、いたずらをする子、腕白な子どもなど、そんな姿の子どもをも総称して言ったものである。

そもそも「ごんた」の由来は、江戸時代の人形浄瑠璃・歌舞伎『義経千本桜』の三段目の主人公「いがみの権太」から来ているのである。根性のゆがんだ悪党権太の本心は善良だったことから、京、大坂の人々はちょっと悪事はするが根っからの悪じゃないという意味合いで、「ごんた」「ごんたくれ」を使って、今日に至っている。ゆえにある意味、愛すべき存在、親しみを込めて呼ぶところが多大にある。「ほねっこたべてー」という犬の餌の宣伝犬、ゴン太を思い出す人もいるだろう。まさにあの感じである。

さて、地域の子どもは地域で育てるとよく言われるが、それは何を以って育てるのかといえば、まさに京ことばが育てるのである。共通語は事実を示す言葉であるのに対して、京ことばはその事実に微妙なニュアンスを加味したことばなのである。それゆえそのことばで育った子どもは、人の機微のわかる子どもとなるのである。

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京ことば研究家
西村 弘滋

 
京ことば研究家
京都市教育委員会 総合教育センター 総括首席指導主事

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