目立たない、だとか歴史の蔭に隠れた、という言い回しはなるべく使いたくないけれど、土御門(つちみかど)上皇については、後鳥羽上皇に比べて知られていないことが多いのではないかと思う。
後鳥羽上皇(後鳥羽院)は、いわずと知れた和歌の帝王であり、百人一首の九十九首目に和歌が選ばれている。また、おなじく承久の乱をおこした順徳院も、百人一首の最後をしめくくる歌人である。後鳥羽院は承久の乱ののちに隠岐へ、順徳院は佐渡へ遷幸し、それぞれ都へ戻ることなく崩御している。
土御門院は、後鳥羽院の第一皇子である。父である後鳥羽天皇の譲位をうけ、建久9年(1198年)、4歳で即位し第83代天皇となった。
幼い土御門は、19歳で上皇となった父・後鳥羽の敷いた院政のもと、12年間政務を担当した。土御門に天皇の位を譲ったことで比較的自由な身となった後鳥羽はのびのびと、あらゆる芸事に情熱をそそぎはじめる。後鳥羽院が和歌を本格的に始めたのは上皇になってからであり、藤原定家ら和歌所の歌人たちに命じて勅撰和歌集『新古今和歌集』をつくらせたことは、現代まで続く三十一文字の歌の歴史の中でも綺羅星のような出来事として、古典の教科書の中でも「三大集」として知られている。
『新古今和歌集』が完成し、完成披露の宴(竟宴)が華やかに催された元久2年(1205年)、即位から7年後の土御門院は元服している。
後鳥羽天皇の誕生した治承4年(1180年)から、後醍醐天皇の隠岐からのおよそ150年の歴史を和文で綴る歴史物語『増鏡(ますかがみ)』の「おどろのした」の章には、土御門院が元服したときの様子が「いとなまめかしく うつくしげにぞおはします」と記されている。髪上げし、冠帽をつけた顔かたちが童子の時の姿より優れて見えたことをあらわす。端正な容姿であったらしい。
が、その5年後の承元4年(1210年)、土御門院の穏やかな気性に物足りなさを感じた後鳥羽院は土御門院を退位させ、土御門の異母弟である第三皇子を即位させる。順徳院である。
土御門院はその後、父・後鳥羽院のおこした承久の乱により、遠く土佐国(高知)に遷幸することとなる。政治の実権を持たず、承久の乱にも関与していなかった土御門だったが、父や弟が幕府の手によって遠流の地に赴く中、自分だけが都にとどまることをよしとせず、みずからの決断によって都を旅立った。承久3年(1221年)10月10日のことだった。のちに幕府の意向で、土佐よりも都に近い阿波国(徳島)に遷幸。阿波の地で寛喜3年(1231年)崩御された。37歳。
慣れ親しんだ京の都を旅立つ者もいれば、都に残された者たちもいる。残された人間にも日々のくらしがある。
土御門院に仕えたある女房が記した日記には、突然愛する人と引き離されても生きていかなくてはならない者の心情が和歌とともに綴られている。この日記は通称『土御門院女房日記』と呼ばれている。
この日記が初めて世に知られることとなったのは、現在、京都でおよそ八百年、和歌をはじめとする公家の伝統文化を継承している冷泉家の蔵で保管されていたものが2001年(平成13年)に冷泉家時雨亭叢書『中世私家集五』(朝日新聞社)として出版されたことがきっかけだったという。まだ、存在を世に知られてから20年と少ししか経っていないのだ。
「四歳で位にお即きになって十二年間世を保たれた。その後十年余り上皇として都にあられた。恐れ多くも頼りに思い申し上げていたのに……お遷りになることになった。」
『土御門院女房日記』の冒頭の一文のおおよその意味である。注釈書の著者である山崎桂子氏により欠損部が補われている。
(新注和歌文学叢書12 土御門院御百首・土御門院女房日記 新注 山崎桂子/青〇舎)
※〇は、「簡」の「日」部分が「月」
この日記の作者である女房が誰であるかは、はっきりとはわからないが、土御門院に寵愛をうけた女性であるという。
土御門院が譲位して4年後、それまで御所としていた住まいが火災に遭ったために、院は母である承明門院の御所へ移り住んだ。承明門院の御所、土御門殿は現在の京都市下京区万里小路にあった。この土御門殿で『土御門院女房日記』は書かれた。
こしかたゆくすゑを なにとなくあんじつゝけて、
ぬともなくて あかすひかずのみつもれば、
(過去と未来のことをなにとなく案じつづけて、
ぐっすり寝るということもなくて 夜を明かす日数だけが積もるので、)
まどろめばゆめにも君をみるものをねられぬばかりうきものはなし
〔現代語訳〕
まどろめば夢にでも上皇さまを見ることができるのに。寝られないことほどつらいことはない。
※訳は山崎桂子氏による。
承久の乱の年(1221年)の年末に詠まれた歌である。愛する人、土御門院は遠く土佐の配所にいて会うことは叶わない。それならせめて夢のなかでも会いたいが、いろいろな物思いがあってぐっすり眠ることができず、夢に見ることもできない。という気持ち。
配所に赴いた土御門院も都を想ったであろうが、都に残された人々もまた、別離の悲しみに暮れていたのである。
短歌(有泉 作):
「目覚めてもまたこうやって月を眺めよう」と君に言われたような