紫野はどこ?

京都盆地のランドマークの一つである『船岡山』山頂から四方八方の山麓を見渡して見ると、ほぼ紫野地域である。大雑把に言うと、大徳寺と今宮神社を含む、東は堀川通り、西は千本通り、南は鞍馬口通り、北は北大路通りを囲む地域なのである。
この地は、平安京のエリア外で、内裏の北方は天皇や貴族の遊狩地であり、禁野であった。平安京が廃れると、都の北側を洛北と言い、内野、上野、北野、萩野、紫野、平野、蓮台野を洛北七野と称するようになった。現在でも地名として残っている。
紫野の地名は、染色に使う紫草が生えており、その色がたなびく雲に映って紫になったと言う説がある。紫は高貴な色とされ、昔は天皇の離宮が営まれる風光明媚な地であった。一方、村の先から転じて紫野と言ったかも知れない。
そして、紫野と紫式部との関係も調べてみた。
 

紫野の遺跡巡り

1 雲林院

北大路通り旧大宮下るに今でも残る雲林院

北大路通り旧大宮下るに今でも残る雲林院

筆者撮影

大徳寺の院外塔頭。淳和天皇の広大な離宮『紫野院』がこの辺りにあった。
離宮の西側にあった大池に映った山を船のように思えたので、その山を船岡と言った。
後に僧正偏昭が入寺(869年)して雲林院という官寺になった。雲林院は『源氏物語』第十帖『賢木(さかき)』に登場する。
鎌倉時代になって北西に大徳寺が建立された。
 

2 常盤井と弁慶石

北大路通り旧大宮下る西側 自然石で囲まれた常盤井 

北大路通り旧大宮下る西側 自然石で囲まれた常盤井 

筆者撮影

井戸は周囲を自然石で囲まれ、常に清水を湧出していたので常盤井といわれた。また、牛若丸の母、常磐御前が用いた井水ともいわれた。
この付近は、梶井宮(大原三千院)があったところでもあり、それ以前は紫野院(雲林院)があった。 

弁慶が腰を掛けたという弁慶腰掛石

弁慶が腰を掛けたという弁慶腰掛石

筆者撮影

常盤井近くの民家の奥庭に赤褐色の巨石(チャート)があり、弁慶腰掛石といわれている。
大徳寺の東側を南下していた川に架かっていた石橋が「ごじょ橋」と呼ばれ、牛若丸と弁慶が戦った橋と伝わる。
今宮神社北側に牛若丸生誕の井や胞衣塚もあり、鞍馬山からも近く、納得いくような気がする。
 

3 若宮神社

若宮神社(若宮八幡宮)

若宮神社(若宮八幡宮)

筆者撮影

京都府八幡市の石清水八幡宮を本宮と呼ぶに対して、若宮八幡宮と言う。古来よりこの地を源頼光の屋敷跡と伝える。この付近一帯には源家に関する伝説が多く伝わる。
 

4 今宮神社御旅所

昔は賑やかだった今宮神社御旅所

昔は賑やかだった今宮神社御旅所

筆者撮影

今宮祭の日には神様が旅をして泊まられる所で、お祭りの中心であった。
能舞台があり、300年以上前から能の奉納が続けられていた。
現在、今宮祭の時のみ、能舞台は御神酒飾りや八乙女舞の舞台となる。普段は戸板で覆われ、周りはガレージとして使用されている。
昔の賑やかさが偲ばれる。
 

5 小野篁・紫式部の墓

堀川通に面してムラサキシキブが咲き乱れる墓所入口

堀川通に面してムラサキシキブが咲き乱れる墓所入口

筆者撮影

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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