京都では3歳までに愛宕山(標高924m)にある愛宕神社にお参りすると、火の災いに遭わないという言い伝えがあり、私も子どもが小さいときに連れて上がったことがあります。また毎年7月31日は、「愛宕山の千日詣り」の日です。この日にお参りすると1000日間火の災いに遭わないとされ、例年多くの人がお詣りのために登ります。このように愛宕山は比叡山と並ぶ霊峰で、昔から多くの人が訪れる山です。その登山口は通常、清滝です。その昔はまず嵐山から清滝まで歩いて行かねばなりませんでした。今は一般的には京都バスかマイカーで清滝まで行き、そこから険しい山道を登りますが、戦前、ここに鉄道とケーブルカーが走っていたのをご存知でしょうか。そこで今回は、戦前に嵐山~清滝間に電車を、そして清滝からケーブルカーを走らせていた愛宕山鉄道のお話をしましょう。
参詣のための鉄道
この愛宕山鉄道は主に京阪や嵐電が出資し、昭和2(1927)年8月に設立された資本金200万円の会社でした。当時は鞍馬電鉄(現叡山電鉄鞍馬線)や高野鉄道(現南海電鉄高野線)など参詣を目的とした鉄道が敷かれるのがブームだった時代です。発起人の代表は風間八左衛門という貴族院議員も務めた地元の有力者で、嵐山など洛西地域の発展に尽力された人でした。
まず嵐山~清滝間の平坦線(全長3.4km 昭4(1929)年4月開業)ですが、当初は国鉄(現JR)嵯峨駅の北側からスタートする計画もあったようです。ところが、この電車の建設に嵐電も出資したものですから、嵐電の嵐山駅が起点となりました。嵐電嵐山駅の一番北側のホームから発着していました。今、嵐電が発着している一番北側のホームは、元は愛宕山鉄道のホームだったのです。
その北側には国鉄山陰線がありましたから、そこから発車した電車はそれをオーバークロスで越えていました。現在の高架道路の位置に当たりますが、当時の痕跡は見当たりません。開業時はありませんでしたが、その高架を下りたところに昭和16年(1941)に「嵯峨西」駅が設けられました。そして北上し、清凉寺の北側にあったのが「釈迦堂」駅です。今は道路わきに小さな公園がありますがそのあたりが駅だったようで、隣接して小さな車庫もありました。現在、京都バスが走っているこのルートは清滝道と呼ばれていますが、緩やかなカーブとなだらかな勾配、いかにも電車が走っていたという感じです。そして途中に「鳥居本」駅がありました。今も清滝道から鳥居本の集落に下りる階段がありますが、これはこの鉄道が開通した時に駅と集落を結ぶために作られたものです。
さらに進むと清滝トンネル(長さ444m)があります。片側交互通行の清滝トンネルですが、その断面は幅が狭く背が高いという鉄道の単線トンネルをそのまま活用していることがすぐにわかります。トンネルの手前に複線から単線に変わる試坂信号所がありました。電車が開通するまでは、ここからは試(こころみ)峠という急登を越えなければ清滝に行けませんでしたが、電車のおかげで簡単に行けるようになりました。ちなみにこの坂が越えられないようなら愛宕山には登れないという試の坂という意味だそうです。そしてトンネルをくぐると終点の「清滝」駅でした。1つのホームの両側に線路がある寺院風の屋根があった駅でした。
昭和6年(1931)の時刻表によりますと6:30~22:00の間、10~20分ヘッドで運転され、所要時間は11分、運賃は片道15銭でした。ちなみにこのとき嵐電は四条大宮~嵐山間が14銭でした。電車は北大阪電鉄(現在の阪急千里線)で走っていた1形という小さな木造のポール電車5両を譲り受けて運行していました。
鋼索線
続いて鋼索線(ケーブルカー)ですが、平坦線に遅れること3か月、昭和4(1929)年7月に開業しました。全長2.1km、高低差639m、当時、東洋一といわれたケーブルカーでした。ちなみに大津の坂本から比叡山に上がる坂本ケーブルが高低差484m、八瀬から上がる八瀬ケーブルが高低差560mですからいかに愛宕山ケーブルのスケールが大きかったかが分かり、当時としては技術の限界だったようです。車台(車両の台枠部分)はスイス製で定員84名の2両の車両が上下していました。
同様に昭和6年の時刻表では運行時間は8:00~20:00、通常10~15分ヘッドで運転され、料金は片道50銭、往復85銭でした。
清滝川に沿った集落の奥、愛宕山への登山口の右側に、下の駅「清滝川」がありました。今は土に埋もれた階段状のコンクリートの構造物が見えます。これがプラットホームの跡です。山上の駅「愛宕」にはレストランや飛行塔(模擬の飛行機が回転して景色を楽しむ遊具)などもありましたし、ホテルや野外劇場、さらに冬季にはスキー場もあったそうです。ケーブルカーを利用するとあの急な坂道を登らなくてもよいので、大人気でした。開業の日は大勢の人が押しかけ定員以上に乗せたために、トラブルが発生し動かなくなったというエピソードが残っています。また戦前に詠まれた句に「愛宕山 禿もありけり スキー場」というのがありました。京の町から見上げたらそのように見えたのでしょうね。
幕を閉じた鉄道
嵐電との連絡切符のほかに、大阪からでも新京阪(現阪急)(天神橋~桂~嵐山)を利用すると手軽に出かけて楽しめる行楽地として人気を集め、新京阪と愛宕山鉄道(電車とケーブルカー)の割引連絡きっぷも発売されていたようです。今でいう「お得なきっぷ」が当時にもあったのです。
開業当初はすごい人気で、初年度の乗客数は平坦線が53万人、鋼索線が18万人という記録が残っていますが、しだいに乗客は減少していきました。一方で資本金不足や借入金の利息が重なり開業翌年から経営としては厳しくなり、数年後には人員削減や労働争議という事態もおこったようです。やがて戦時体制が進むと不要な路線ということで昭和19(1944)年2月にはまず鋼索線が、同12月には平坦線が休止されました。そして先の清滝トンネルは、三菱重工の軍需工場として利用され、もちろんレールはめくられ供出されました。ちなみに、現在、清滝の京都バスの折返し場所の周囲に古レールで作った柵がありますが、供出されずに残っていたものを使ったのではないかと考えています。
また5両の電車は、その後3両が京阪石坂線に、2両が京福の福井支社に再び「身売り」されていきました。電車の中にはこんな運命の車両もあるのです。石坂線時代の1形の写真が手元にあるのでお目かけますが、当時の姿をよく残しています。こんな電車が1両で嵐山~清滝間を往復していたのです。
こうしてわずか16年で小さな鉄道が短い歴史を閉じたのです。
ところで、丹後の天橋立のケーブルカーも戦時中は休止になって資材を供出されたのですが、戦後復活する際に愛宕山ケーブルのレールが活用されたという記録があるようで、どういう経緯でそうなったのか不思議です。なお愛宕山ケーブルカーは途中に6か所のトンネルがありましたが、今は一部が崩落していて、一般のハイカーは線路跡に立ち入ることはできません。
戦後、愛宕山のケーブルカーの復活やロープウエイでの再建が何度か計画されたようですが、実現にはいたっていません。もし実現していたら「千日詣り」も楽チンだったでしょうし、嵐山周辺の観光もさらににぎわったことでしょう。
【主な参考文献】
鉄路50年(京阪電鉄社史)
宇治の電車・京都の電車(宇治歴史資料館図録)
日本鉄道旅行地図帳(新潮社)