上賀茂神社と徳川家~葵紋がつないだご縁~
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京都の上賀茂神社(正式名称 賀茂別雷神社)は「二葉葵」がご神紋です。葵祭でも行列の人々の衣冠や牛車を飾っていますよね。そして「葵使(あおいつかい)」として、大河ドラマで注目されている徳川家康に葵や進物を献上していたという話もあるんです。宮司の田中安比呂様にくわしくお聞きしました。
天下人と上賀茂神社
田中宮司「徳川家は三河の出身で、愛知県豊橋市にも賀茂神社があるんですよ。そこは賀茂社だから、当然二葉葵が御神紋の訳です。徳川家は賀茂社に対する思いがすごく強かったといわれています。
賀茂神社の神紋が二葉葵。二葉葵は神様の紋です。だから今でいうデザイナー的な人が、二葉葵をモチーフにして葉っぱを3つくっつけて丸の中に入れたのでしょうね。この葵の印というのはすごい力を持ったわけです。それで賀茂社の二葉葵と同じ、三葉の葵を持っている徳川が天下を取ったから、当神社から葵をお届けしたわけです。
たとえば織田信長が天下を取って国をまとめ、日本一になった。信長は比叡山を焼き討ちするような人間なので、嫌われたら大変なわけです。賀茂社なんていらないって言われたら、翌日には燃やされてしまう。だから当然、ごますりに行くわけです。織田信長が『俺の馬が一番速い。』と言って20頭ここに持ってきて、競馬(くらべうま)をしたこともあります。当時の馬っていうのは、もう今で言うと戦車みたいなもので、その信長がここで走らせているわけですよ。その時には大変なご馳走をしているといった様子が当神社の古文書に残っています。」
田中宮司「もちろん信長だけじゃなくて、天下を取った人に対してはものすごい気を遣いました。信長が明智光秀に撃たれるとすぐに光秀にお祝いを持っていったという文書が残っています。あの信長を討った5日のうちに明智光秀から朱印状をいただいて、『この神社を守る』ということが書いてあります。もうそれは必死だったのでしょう。ちょっと言いにくいですけど、そういった文書からたくさん読み取ることができます。」
田中宮司「葵使は幕末まで毎年200年以上続きました。もちろん葵だけじゃなくて西陣織とかいろんなものを持っていきます。10日もかけてあちこち泊まりながらなので、ものすごい費用をかけていくわけです。そうすると、当時の将軍は大金持だから京都からよく持ってきたなと言ってお供えをくれますので、十分持っていっただけの価値もあるのです。だから、帰りは鎌倉見物したそうです(笑)いくらかかったっていう決算書も残っていますよ。」
東福門院とのご縁
田中宮司「3代将軍の徳川家光の妹は東福門院といい、後水尾天皇に嫁ぎました。当時の上賀茂神社の宮司が新年の挨拶に京都御所に行ったら、京都所司代という今でいう京都府知事みたいな方が「上賀茂神社は荒れていてしばらく遷宮をしてないんじゃないか。」と東福門院が心配していると言うんです。だから遷宮をしなさいと言われたもので、宮司は帰ってきて大喜びしました。それで実現するように大祓詞という長い祝詞を一晩中寝ずに千度あげ、ぜひ実現してくれるようにと神様に祈りました。
そして境内の図面を東福門院のところへ持って行ったら、東福門院がそれを中和文院(1代前の天皇の皇后)と一緒に見て、いいでしょうと。たくさんある建物全部作りなおしなさいと言ってくれたのです。それが1626年の1月で、翌年の12月に全部作り直しました。丸2年ですね。」
田中宮司「もう400年前のことですが、今で言うと300億から400億円かかるのではないでしょうか。伊勢神宮が500億円ですしね。それだけ費用を出せたのはどういうことかと言うと、将軍はお金持ちですが、全国に大名がいます。大名はお金持っていると俺が天下取ってやろうって野心が起こりますから。将軍はお金を出させるわけです。それで一番いい理由が、京都の神社を作り直すからお金を出せと言うことでした。だから、家光の時に京都の神社仏閣の大きなところはほとんど作りなおしてもらっていると思います。」
田中宮司「徳川家光の時代は3代目で、力を持っていたし、大名からお金も集めやすかったんじゃないでしょうか。東福門院も上賀茂神社を綺麗にしてよかったなと思ったんじゃないかと思っています。下鴨神社もそのあと綺麗にして、寺社の修復の走りでしたね。神仏にとってもいいことだし、大名からお金は取れるし、いいことしかないと。1610年から葵を将軍に届けていたという縁もあったんでしょうね。東福門院は葵と徳川との縁がすごく強い上賀茂神社がずいぶん傷んでる、お金をすぐ用意してすぐ作りなおしましょうと。全部と言っても60棟もありますよって図面を持って行ったら、それを見て『いいでしょう。』って言ったのだからすごいことですよね。」
田中宮司「ご縁というのを大切にしてくれたのでしょうね。だからその後、一部は遷宮で建て替えたことがあるけど、それ以外のものはその当時の建物を未だにそのままになっています。全て遷宮で建て替えをするのは難しいことです。」
田中宮司「その時に最高の材料を使ってくださったので、今も残っています。立派な檜を4つに割ったその1つの木から4本の柱を取る。それだけ古い大きな檜を集めて、作った建物なんですよ。ものすごい大切にしっかりした建物を作ったわけですね。それも徳川家だからやってくれたことですし、葵のご縁の強さを感じます。」
三葉の紋
田中宮司「京都のいろんな神社仏閣が家光の頃に建てなおしてもらっているのですが、必ず御殿のどこかに三葉葵の紋(徳川家の紋)がついているのです。しかし上賀茂神社はつけてない。徳川家は最初にやった上賀茂神社には自分のところの紋をあえて残さなかったのです。ここが二葉葵だからでしょうか。御殿には二葉葵の紋がいっぱいついてるのだけど、三葉葵はついていません。他の寺社では三葉葵紋が入り口に大きくついているところもあると聞きます。徳川家が作ったのだという証拠を残してるわけですね。」
徳川家が関係した「葵祭」
田中宮司「葵祭は葵を飾って祭をするから葵祭だというけど、これは徳川家が言ったからで、江戸時代以降なのですよ。それまでは『祭』といえばすなわち賀茂祭のことでした。」
田中宮司「徳川家が天下をとってから、自分たちの紋の葵を皆がつけてお祭するのが葵祭なんだ。ということになったのです。」
おわりに
上賀茂神社は、「葵プロジェクト」という活動もされています。激減する二葉葵を保護・育成し、上賀茂神社に「葵の森」を再生すべく取り組んでおられます。
葵祭だけでなく徳川家ともゆかりが深い「葵」にこのような面白いエピソードがあったとは驚きでした。皆さんも是非、上賀茂神社に訪れて歴史を感じてみてくださいね。
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