左京区の出町柳から八瀬比叡山口と、途中の宝ヶ池から鞍馬までを結ぶ叡山電鉄(叡電)は地元の足として、観光客の足として今日もコトコト走っています。今はガラスを多用した展望電車「きらら」(平成9年~)と前面に大きな楕円をあしらった「ひえい」(令和元年~)が看板電車ですが、開業直後の昭和3(1928)年から平成5(1993)年まで約65年間走り続けたデナ21形電車こそが、叡電のイメージでした。今は最後まで走り続けたデナ21号車の先頭部だけが鞍馬駅の横に展示されており、「昭和の叡電」を思い出させてくれています。
デナって何
電車には全て形式とその形式の何番目の車両かという番号が付けられています。少しご存知の方なら国鉄・JRの車両にはクモハ(モーターが付いた運転台付きの普通車)やサロ(モーターの付いていないグリーン車)などの後に形式や番号がふられているアレです。それが叡電の場合はデナやデオなのです。
デは電車のデで、ナは「中型」のナです。車体の長さが15m未満のものを「中型」としてナを、15m以上のものを「大型」としてオを付けています。そのルールで先の「きらら」は形式としてはデオ900形、「ひえい」はデオ732号車なのです。なお製造両数の少ない私鉄では形式と番号を一体化することが一般的で、形式はデナ21形ですがその1両目はデナ21、2両目はデナ22という風にここではデナ24まで4両登場します。
大正14(1925)年に出町柳~八瀬間が開業した時はデナ1形という電車6両でスタートしました。さらに昭和元年にデナ11形という電車が4両増備されました。これらの電車もいつか紹介したいと思いますが、その後昭和4年に登場したのがデナ21形なのです。ここから少しややこしいのですが、叡山線(京都電燈)とは別に宝が池(開業時は山端)~鞍馬は鞍馬電鉄という別の会社でスタートしました。この時、見た目は一緒の車体のデナ121~126の6両が鞍馬電鉄の電車として登場します。そしてここでいうデナ21形とは京都電燈の21~24だけでなく、鞍馬電鉄の121~126を合わせた10両をいいます。大きな違いはこの鞍馬電鉄の電車は鞍馬までの急こう配を行き来するので、下りの時に使用する発電ブレーキ(自転車の発電機と同じように回転エネルギーをモーターで電気に変えて、それを抵抗器で放熱することによりブレーキ力を得る)を最初から備えていました。そこで鞍馬電鉄の電車は宝ケ池から出町柳まで乗り入れることが出来ましたが、京都電燈の電車は発電ブレーキが付いていなかったので、鞍馬まで乗り入れることはできませんでした。
優雅なデナ21
デナ21形の特徴は何といってもその優雅なスタイルでした。他にもよく似たデザインの電車はありますが、昭和初期の電車の多くは窓が真四角だったの対し、デナ21が窓の上部の角が丸く仕上げてありました。これはこのデナ21に始まったのではなく、先述のデナ1形もデナ11形も同じで、いわば京都電燈のこだわりだったのでしょう。その上車体の前面が丸く膨らんでいるのも柔らかい印象を与えます。今の「ひえい」の前面が丸いイメージになっているのもその流れでしょうか。
また当時の電車は「半鋼車」といって車体の外側は鉄板でしたが、車内は木製でした。それをニス塗りで丁寧に仕上げてありました。室内灯もいわゆる電灯色を発する横長の管形白熱管でしたので、その光と相まって何ともいえないほっこりする車内でした。その間を詰襟の制服の車掌さんが切符カバンを下げて行き来し、乗車券を売っていました。ちなみにこの白熱管は直流100Vで点灯します。架線の電圧は600Vですから白熱管を6つ直列でつないで点灯させる仕組みでした。すると電車が勾配を上りはじますと、モーターにたくさんの電気が必要になるので、何となく車内が暗くなり、運転手さんがノッチをオフ(モーターへの電気を切る)にすると、車内がパッと明るくなるという極めて人間味のある電車でもありました。そしてつり革と網棚を支える金具が一体であったのもおしゃれでした。
このKLKでもお話ししましたように昭和53(1978)年まではポール集電(1本の棒を上げてそこから電気を取る)でしたから、これまたデナ21にはマッチするスタイルでした。正面が3枚窓なのは、真ん中の窓から身を乗り出してポールをロープで上げ下げするためでもありましたが、運転台前の窓以外の2枚を全開(落とし込むタイプの窓)して洛北の風をいっぱい吸い込んで走るときは爽快でした。
さらに車体の前面と側面には砲金製で楕円形の車両番号が1両につき6枚も取り付けてあったのがいいアクセントになり、この車両の特徴でした。
3社に渡って走り続けたデナ21
お話してきましたように昭和4(1929)年、京都電燈という会社の電車として登場したデナ21は、やはりこのKLKでも紹介しましたように昭和17(1942)年に鞍馬電鉄とともに京福電鉄の電車になり、戦時中も活躍しました。車体の色は長く深緑1色でしたが、昭和26(1951)年ごろから窓周りから上はベージュになります。年配の方にはなじみがある、あの京福の塗分けでした。嵐山線も同じ会社でしたから嵐電も長らく同じ色でした。そして昭和39(1964)年に鞍馬線で事故があり、デナ121と123が廃車になり、デナ21の仲間は以後8両になりました。
また発電ブレーキのなかったデナ21~24にも発電ブレーキが装備され、鞍馬にも入れるようになりました。しだいに乗客が増えてくると小ぶりなデナ21形を2両連結にして走らせることも多くなってきました。特に10月の鞍馬の火祭りの日や秋の行楽期など乗客が多い日はモーターの負荷も大きいので2両ともポールを上げて鞍馬を目指すという、ちょっぴり滑稽な光景も見られました。連結運転の場合は車両間を行き来できませんでしたからそれぞれの車両に車掌さんが乗り、運転手と合わせて3人乗務しなければなりませんでした。
昭和53(1978)年に集電装置をポールからパンタグラフに切り替えるときに、このデナ21は車体の大手術を受けます。デナ21+22 23+24というふうに固定の2両連結にするため、それぞれ連結部分の真ん中を開けてホロをつなぎ行き来できるようにしました。パンタグラフ姿もよく似合い、2両連結でも1両でも運用できるようにして生き延びたのです。
昭和60(1985)年に京福電鉄から叡山電鉄が分離し、デナ21は3つ目の社名を負って走り続けます。しかし寄る年波にはというやつです。老朽化とともに何よりも冷房化やワンマン化ができない電車でしたから昭和62年から1両、また1両と廃車が進み、大ぶりのデオ600形や冷房の付いたデオ700形に置き換わっていき、最後まで残ったのがデナ21+22の編成でした。平成6(1994)年11月に、前面に装飾されて65年間の営業運転を終えました。その間に217万km走ったということですから、本当によく頑張ってくれました。そしてデナ21号車の前頭部だけが切断されて、翌平成7年8月から鞍馬に置かれているというわけです。すごくマニアっくなお話をするとデナ21号車は出町柳方に連結されていましたから、この切り離された面は出町柳方のモノなのですが、今は鞍馬方を向いて展示してあります。もっとも一般の方からすればどうでもいい話ですね。
個人的には当時1両だけでも残してもらって、イベントや観光電車として活躍してほしかったのですが、そうなればお金もかかるし、夢で終わりました。鞍馬といえば天狗さんとデナ21形電車、そんな思いをいつまでも発し続けたいものです。
ちなみに叡山電鉄では、今、このデナ21の補修をめざしてクラウドファンディングを展開されています。(2023年11月末まで)
詳しくは同社のホームページをご覧ください。