天明5年の新調
天明5年(1785)、現在第一装の前後左右の胴掛が新調された。
前掛
前掛は「唐美人遊楽図」中国補子中縁付といわれ、上部と左右の中縁に「中国補子(ほし)」(朝鮮では胸背と呼ばれる)という明末期~清の中国の官服の胸と背中に位を示す刺繍が縫い合わされている。
一説に鳥の種類によって1位 仙鶴(白鶴)、2位 錦鶏(雉)、3位 孔雀、4位 雲雁(鴨)、5位 白鷴(白雉)、6位 鷺、7位 鴛鴦、8位 朝鮮鶯、9位 鶉、十位 鵲、の位を表すとされ、明末期のものといわれる。
後掛
宝暦7年「祇園祭御霊会細記」「山鉾由来記」には「前掛 びろうど地寿老人」とあり、前掛の新調で後掛に改修されたと思われ、現存される郭巨山懸装品(けそうひん)で最古のもの。近年まで「後掛 寿老人」とされていたが「寿老人は鹿と、福禄寿は鶴とともに描かれる」の説があり、衣に鶴が描かれており福禄寿とした。巡行では見送に隠れるため、見送が揺れたときだけ見えるよう配置されている。
左胴掛
下絵は左右とも円山応挙の師、石田幽汀による。町内松屋源兵衛寄付。清の画聖呉道子が描く龍が画面を飛び出て昇天する図。
呉道子は玄宗皇帝に仕え仏画が巧みで壁画を300近く残している。
右胴掛
「陳平飼虎図」
陳平は中国前漢時代に項羽・漢の高祖に仕え奇計をもって戦功をたてた武将。村長になったとき皆に肉を公平に分かつ事で「私が天下を取ったらこの肉のように公平にする」といい丞相になった故事を、虎を飼うことで表現している。
石田幽汀(いしだゆうてい)
享保6年(1721)生まれ。狩野探幽の流れをくむ鶴沢探鯨に絵を学んで禁裏の御用絵師となり、鶴沢派の技法を基礎に、京狩野や琳派風の豊かな装飾性と写生的な描写を加えた濃彩緻密な画風を展開し、天明6年(1786)郷里の明石で没した。墓は京都中京区錦小路通大宮西入の豐藏山休務寺(淨土宗西山禪林寺派)にある。円山応挙、田中訥言、原在中、江村春甫、金工家の一宮長常らの師として有名。
天明の大火
天明の大新調から間もない天明8年(1788)1月30日の朝、宮川町団栗の両替商から出火した大火は折からの東風に煽られ、2月2日に鎮火するまで二昼夜燃え続け、鴨川~千本、東本願寺~船岡山が罹災した。
これは京都を灰塵に帰した応仁の乱を上回るもので、乱後の宝永の大火(1708)、元治の禁門の変(1864)と合わせて「京都の三大大火」と呼ばれ、中でも「京都大火」「都焼け」というと一般的に天明の大火のことをいう。山鉾町も被害は甚大で、郭巨山町は町家、町蔵を焼失し、御人形、御山胴組、懸装品を失うも、まとめて保管による一挙焼失を免れるため、大事な物は町役員宅で分散保管し、真っ先に持ち出すことになっていたため3年前に新調した胴掛類は難を逃れた。
役員宅での分散保管は幾度かの火事罹災経験からの予防策。当時は消火作業で町会所を守るために打ち壊した家は町内の費用で建て替えたり、また、土地の売買もいったん町内が買い上げ、信用のおける者に売却するなど山鉾町では町内のしきたりが強く、役員会を欠席した者は後で一切文句を言わないなどの取り決めもあった。ほかには住民で資金を出し合う「頼母子講(たのもしこう)」が組織され、貸し出した利息を山鉾運営資金に充当していた。
寛政の復興
天明8年(1788)の天明の大火での罹災後、山鉾町はただちに復興にとりかかったが、世は近世最大の飢饉「天明の大飢饉(天明2年~8年)の後、老中松平定信の「寛政の改革(1787~1793)」の最中であった。自家の再建と並行しての山鉾再建に、町内役員会は、会議は食事後に行い、長引いた場合はいったん帰宅して食事を摂るか、もしくは町内が用意してもおにぎり2個とタクアン数切のみとして倹約に努めた。
寛政元年(1789)からの復興では、まず郭巨殿、御童子の御首(御頭)が新調され、郭巨殿御胴は寛政4年、御童子御胴は寛政3年に人形師金勝亭九右衛門利恭と助っ人大工幸介によって完成、錦小路新町西入亀龍院にて開眼した。
大火罹災3年前に新調された胴掛4枚は難を逃れたが見送は焼失。寛政4年(1792)に東福寺より「林指峰寿叙文」見送の寄進を受けた。「林指峰寿叙文」見送は明国嘉靖辛亥(1551年)の銘文があり、大きな掛軸の形態で林指峰翁の長寿を祝う文が金泥文字で書かれ、現在は京都国立博物館にて保管されている。
文化文政期の郭巨山
寛政5年(1793)には見送掛を新調し郭巨山は巡行に復帰し、徐々に懸装品の錺金物の充実を図り、文化10年(1813)には金幣を新調、概ねの懸装品が復興した。
見送の新調
東福寺より寄進を受けた林指峰寿叙文見送は大型の掛軸で風に舞うため、文化13年(1816)円山応挙の孫、応震の下絵による上部に日輪鳳凰、中央から下部に蝦蟇(がま)、鉄拐(てっかい)、呂洞賓(りょどうひん)などを描いた「唐山水仙人図」見送を新調した。
応震は円山家の家法を守り、人物山水花鳥に長じ、この見送下絵を描いたのは28~29才の壮年の頃と思われる。応挙の師匠、石田幽汀(郭巨山の左右胴掛の下絵を描いた)の墓は中京区錦小路大宮西入の休務寺にある。
応震の墓は太秦映画村南隣の悟眞寺(右京区太秦東蜂岡町5-1)にあり、同地は応挙の生誕地でもあり、応挙の墓の右隣に応震の墓もある。ちなみに同寺は郭巨山町ともご縁があり、お地蔵様を安置し、8月の地蔵盆にはお勤めをいただき、町内会役員が参詣している。
掛軸御神号
文政9年(1826)御掛軸「祇園牛頭天王」の寄進を受けた。揮毫は弘法大師流の大家、花山院前右大臣藤原愛徳公による。
禁門の変
元治元年(1864)7月19日、長州藩と会津・薩摩・幕府連合軍が京都御所蛤御門、堺町御門附近で戦った禁門の変は蛤御門の変ともいうが、その戦火は「鉄砲焼け」ともいわれ、手の施しようもなく、みるみる間にどんどん燃え広がったことから「どんどん焼け」ともいわれる。
山鉾町の被害も甚大で翌年は巡行中止、翌々年の慶応2年(1866)から徐々に復興したが菊水鉾、蟷螂山、綾傘鉾、四条傘鉾、大船鉾などは昭和・平成まで長い年月を要した。郭巨山は会所、蔵、御山胴組などを焼失したが御神体御人形、胴掛類など主な懸装品はいち早く持ち出され難を逃れた。
慶応2年(1866)には御山胴組一式を新調。復興した山鉾巡行では郭巨山、霰天神山、伯牙山の3基以外は唐櫃で巡行、郭巨山は堂々の1番くじであった。