禅について、そしてその流れ

禅とは一体何なのでしょうか。今から禅について書かせていただきますが、はたして私はこの質問にうまく答えられるか不安です。しかし、どうしても禅というものに惹かれる節があるのです。なぜ惹かれるのか、その点もうまい具合に言語化できなく歯がゆい状態です。
強いて言えば、「さっぱり感」でしょうか。非常に抽象的ですが、そんな気がしています。

私としては、どことなくさっぱりとした印象を抱くこの「禅」という言葉。
…ぜん…ゼン…ZEN… 発音のせいでしょうか、声に出したくなる日本語だと感じます。

日本の禅宗は曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の3つです。個人的に興味があるのは曹洞宗。勝手ながら、この曹洞宗を切り口にして禅の流れを辿ってみます。

日本曹洞宗の開祖である道元は中国へ行き、天童如浄(てんどうにょじょう)という人物に師事して、日本へ帰ってきました。師弟関係というものは家系図のように、その系譜を辿ると源があります。曹洞宗だけでなく、臨済宗も黄檗宗もその中国の祖師を辿ると流れ着くのは、達磨(だるま)という人物です。達磨って言ったらあの赤くて丸っこいのを思い浮かべますよね。そのモデルこそが禅の源流に立つ人物なのです。

現代日本に伝わる禅は中国由来のものですが、思想のもとを辿るとインドにあります。インドの禅は心による修行、瞑想みたいなもので、中国の禅は生活を重視するものです。

達磨は南インドのとある国の王子として生まれ、520年頃に中国へ入りました。そこで後に慧可と名乗る人物を弟子にします。慧可は達磨に弟子入りするために自分の左ひじを切り落としたという話、「慧可断臀図(えかだんぴず)」に関する人物です。
そして慧可は達磨の禅の二祖となりました。教えはさらに続き、六祖は慧能という人物です。この慧能の教えの系統こそ日本禅宗の開祖たちが伝えたものになります。慧能の次に教えを継いだのは南嶽懐譲(なんがくえじょう)という人物です。

南嶽と同じく慧能の教えを継いだ青原行思(せいげんぎょうし)という人物がいます。青原の教えは洞山良价(とうざんりょうかい)に流れ着きました。この洞山良价という人物の教えの流れを汲むのが先に挙げた道元の師匠、如浄なのです。
これは日本曹洞宗の場合ですが、禅の教えはこのようにしてつながり、日本にも伝わりました。

ほんと凄いですよね、「教え」ってやつは…。壮大すぎる…!

冒頭に「禅にさっぱりとした印象を受ける」と書きましたが、禅について調べていくと、「さっぱり」どころか深すぎて私の小さな脳みそでは整理が追いつきません。
世界的な仏教哲学者である鈴木大拙(すずきだいせつ)によれば、禅は「普通の言葉では捉えきれないもの」であり、禅を説明する際には「矛盾する言葉を使用する必要がある」そうです。(鈴木大拙『禅の思想』岩波文庫2022年p19参照)
どおりで整理に困るわけですね。

そこで頭をよぎったのが道元の「只管打坐(しかんたざ)」です。「ひたすら坐る」ということですね。
これは、禅において「いくら思考を巡らしても分からないのなら(または分からないのだから)、ただ座ればいいんじゃないか?思考より行為に依ることが大切。」ということです。
禅には不立文字の心得がありますし、ただ座ることこそががあらゆる言葉や考えを並べた大宇宙的な論に重なる、あるいはそれより大切なのかもしれません。

禅という日常

「日常生活が禅」というのは、禅界隈でしばしば言われることです。なんてったって前述したように日本に伝わった中国の禅は生活を重視しますから。

先に挙げた南嶽の弟子には馬祖道一(ばそどういつ)という人物がいます。南嶽が馬祖に坐禅する理由を聞いたところ、馬祖は「仏になるため。」と答えました。すると南嶽が一心不乱に瓦を磨き始めて、鏡にしようとしました。それに対して馬祖が「そんなことできっこない。」と言うと、南嶽は「そうだよね。じゃ、なんで坐禅して仏になれるの?」と答えたと言います。
南嶽は坐禅によって悟りを得ることはないと言うのです。坐禅に目的はなく、ただ坐禅そのものなのです。道元の只管打坐にも通じますね。

「坐禅で悟ることはできない。」という言葉からは南嶽が現実を真摯に見つめていた様子がうかがえます。また、禅には一瞬一瞬を本気で過ごすという考えがあります。南嶽と馬祖のこのやりとりからは坐禅に限らず、今の行いを一筋に努める姿勢が大切なのだということを考えました。
そして馬祖は南嶽の教えを継ぎました。馬祖の言葉には「平等心是道(びょうじょうしんこれどう)」というものがあります。何にせよ日頃の行為には心をこめるといったことですね。

以上のようなことからお分かりいただけるように、禅の世界では日々の生活を大切にしているんです。修行とは坐禅だけではないと言います。生活すべてが修行だなんです。例えば「食」道元は食に関して『典座教訓(てんぞきょうくん)』という書物を執筆しました。それには食事の際に気を付けることなどが詳細に綴られています。この辺については今後記事にする予定なのでそこで述べたいと思います。

禅の修行の動画をYouTubeで観たことがありますが、そこには掃除・調理・食事などなど修行者でなくても普段する必要のあることを一所懸命にする禅僧の姿がありました。そして禅僧はそれらを「修行」と呼ぶのです。
生活すべてが修行といわれると、生活が縛られているみたいにも思えますが、早い話、日々の行いのひとつひとつを丁寧にこなしていくということなのではないでしょうか。ということは、禅の意識がないままに禅の生活をしている人がいるかもしれませんね。

ここで今一度、「只管打坐」について考えてみます。
只管打坐は道元による坐禅の心根です。日々の生活・行動が修行ということなので、この「打坐」の部分を例えば「打”生活”/打”行動”」みたいに変換してみました。つまり「ひたすら生活/ひたすら生きる」。道元からのエールが聞こえてきそうです。
また、先ほど只管打坐に関して「思考より行為に依る」といったことを書きました。
人って考える生き物なので、時として考えすぎるときがあります。私自身がそうなのです。考え込みすぎて動くことが億劫になったりします。何も考えず行動するのはおっかないですが、考え込みすぎるくらいならとりあえず行動にうつした方がいいのかもしれません。只管打坐からはそうしたことも考えました。

いったい、禅って・・・

鈴木大拙は禅を「日々の経験」と述べています。
飲食、人との出会い、そして生死などは私たちときわめて近いところにあるものです。禅はそのような「普段よくあること」をそのままにしないと鈴木大拙は言います。(鈴木大拙『禅の思想』岩波文庫2022年p5参照)つまり、禅は「日々の経験」のひとつひとつを決して放っておかないのです。

私は「禅は日常」と聞いたとき「分かりやすい」と思いました。
しかしそれは言葉の表面をすくっただけでした。分かりやすいようで、非常に分かりにくい。それが禅というものなのでしょう。まともに読み解こうとしたことはないですが、『正法眼蔵』なんて難解の極みです。それの解説書を買い、読んでいっても一読ではとても分からない。

論より証拠ではないですが、論より体験。この間、禅を思った体験を記させていただきます。

掃除ってし始めると没頭しますよね。
私、8月28日に実家で洗濯機を掃除していたんです。槽洗浄は母がすましていて、私は洗濯機の外面についた汚れを磨いていました。鏡にするつもりはないですが、それはもうきれいにきれいにする気持ちのもとでやっていました。
ちょうどこの原稿を書いている最中でしたので、禅が頭の中に浮かび上がります。そして「ああ、そっか。そういうことなのかな。」と僅かながら腑に落ちたのです。

ところで、「修証一等」というのは『正法眼蔵』「弁道話」に述べられる考え方です。修行することが悟りと重なっているといった考え方です。修行の中に悟りがあるわけで、なにも修行の末に悟りがあるのではないと言います。

「日常生活が禅。掃除も禅。」「悟りは生活の中にある。」といったことが少し理解できた気がしたのです。
私が洗濯機を掃除している姿が悟りとは決して思いません。しかし、「きれいに…」といったそのような行い方が悟りと同義になるほどのものなのかな~と思った次第でございます。修行僧たちが一所懸命、丁寧にする行為は悟るためではありません。その行為自体に意味があり、そこに悟りがあるわけです。
そう考えると、「悟り」というものを超越的、形而上学的なものと考える必要はないですよね。そもそも人間が悟れるなんて思えません。もし「悟り」があるのであれば、懸命に修行する、丁寧に生活を送ることを「悟る」と呼ぶのはいかがでしょうか。

禅は奥が深いものです。申し訳ないですが、今の私にはとてもすべてをまとめることができません。水面をなでるくらいにしか知れていませんが、その魅力には今後も注目していきたいです。
ただ、「禅とは何か。」という問いには「禅は禅である」と答えるのが良いと思います。
この構図がいかにも禅らしく、永久機関的な構図で、禅の甚深性を感じさせるものです。

さて、次回では禅の修行でもあった「問答」を取り上げる予定です。
よろしくお願いします。

今回もありがとうございました!

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この記事を書いたKLKライター

龍大生ライター
日野稜太

平成15年、広島県生まれ
龍谷大学文学部仏教学科在籍

釈尊の教えにとどまらず、神道・キリスト教・スピリチュアルなどにも関心がある。
また、皇室ファンであり、日本の文化や伝統を重んじている。



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