市電蹴上線と梅津線

京都市電の烏丸線や河原町線、四条線などは乗られた方もおいででしょうし、そこにかつて市電が走っていたことをご存知の方もおられるでしょうが、今回お話する蹴上線と梅津線はそれ何っていう感じではないでしょうか。

まず蹴上線ですが、その名の通り東山の蹴上まで市電が走っていたのです。その歴史は古いです。
京都に最初に路面電車(京電)が走ったのは明治28(1895)年2月1日の京都駅~伏見ですが、遅れること2か月、4月1日には京都駅~木屋町通~木屋町二条~岡崎~南禅寺と開業しました。
同年7月には木屋町二条で分岐して寺町二条から丸太町通を西に路線を延ばしていきました。
その木屋町二条のがんこ高瀬川店の前が現在も道幅が広いのは電車が離合・分岐していた証ですが、電車はそこから二条通を東に進み、鴨川を木製の電車専用橋で渡って二条の疏水端に出て、疏水に沿って南下し、仁王門通の角の岡崎円勝寺町まで進みます。
ここまでを鴨東線と呼ぶこともあるようですが、さらに疏水の南側を東に進んで慶流橋(最後は平安神宮前)・広道橋(同動物園前)の2つの停留所を経て南禅寺橋(同南禅寺前)まで走っていたのが当初の蹴上線(線路幅は狭軌)だったのです。

この路線は岡崎一帯で開かれていた第4回内国博覧会へのアクセスでもあったわけで、博覧会開催中(同年4月1日~7月31日)は大変にぎわい、開業日から多くの乗客を運びました。
電車そのものが新たな技術を結集した展示物という色彩もあったでしょう。
ところが博覧会終了後、乗客は激減しました。

インクラインと蹴上線が写っている当時の絵葉書
インクラインと蹴上線が写っている現在の姿

その後明治40(1907)年には蹴上(現在も残るレンガ造りの蹴上発電所のすぐそば・開業時の停留所名は三条蹴上)までさらに延長されました。ちなみに三条~浜大津間の京津電車が開業し、蹴上にその停留所が出来たのは5年後の大正元(1912年)です。

大正7(1918)年に京電は市電に買収されますが、大正15(1926)年には蹴上線は線路幅を広軌に改軌して市電東山線に接続するために東山仁王門~蹴上間の路線に生まれ変わりました。
同時に京電時代からの木屋町二条~岡崎円勝寺町ルートは廃止されました。
こうすることで大きな市電の車両が入ることができるようになりました。
もっとも実際は朝、壬生車庫から祇園経由でやってきた電車が東山仁王門から蹴上線に入り、日中は同線内を行ったり来たりしていたようです。

また昭和10年代の系統は「いろは」で表示されていましたが、蹴上の「け」からかこの区間は「け」系統でした。
それも1形といって明治末期から大正期に作られた最も古い2軸の電車が運用されていたようです。
この電車の制動装置はハンドブレーキだけでしたから、そこそこ勾配のある蹴上線では大丈夫なのかと詳しく知らない私なんかは考えるのですが、終点の蹴上でハンドブレーキをしっかり締めれば動き出すことはなく、かえって一般的な空気ブレーキよりも安全だった?というお話を聞いたことがありました。
その上この区間の乗務員さんは定年まじかなベテランさんばかりが働いておられたようです。
勾配線での運転技術と約1kmという短区間ということでベテランさんにはちょうどよい職場だったのでしょう。

このタイプの電車(広軌1形)が蹴上線を行き来していた

もっとも蹴上線内だけの運転で市内各所にそのまま行けるという運行形態ではありませんでしたから、仮に京津電車から蹴上で乗り換えても大して便利なものではなく、京津電車の乗客は東山三条で市電に乗り換えることが多かったはずです。また当時の市電は乗り換え券で次の電車に乗ることができましたから、短区間の蹴上線では、車掌さんは切符販売と同時に乗り換え券も渡していたようです。

そんなこんなで蹴上線は大きな役割はあまりなく、昭和20(1945)年2月1日に休止(正式な廃止は昭和40年)になってしまいました。

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一方梅津線ですが、西大路四条から四条通の天神川までの区間に昭和20年2月2日に新たに市電の線路を敷いたのがはじまりです。
この梅津界隈には今もそうですが大きな工場があり、当時はいわゆる軍需工場でした。
したがってその工員輸送のために電車が必要と考えられたのです。

そして終戦直前の8月3日には梅津まで延ばされました。当時は資材が限られていた時代ですから、先の蹴上線のレールを撤去して梅津線建設に使ったといわれています。
詳細は分かりませんが時間軸から考えると蹴上線の休止が20年2月1日で、梅津線の開業が翌日の2月2日ですからあり得ませんね。
もっとも天神川~梅津間の延伸開業は半年後の8月ですから、蹴上線のレールを外して梅津に持ってきたというのは十分考えられます。

デルタ自動車教習所の前を行く梅津線の電車
(所蔵 鉄道友の会京都支部 以下同じ)

このKLKでもお話しましたが、当時、四条大宮~西大路四条間はトロリーバスが走っていましたので、梅津線はやはりこの区間だけを往復していました。

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短期間で簡易な工事で線路を敷いたこともあってかここには大きな電車は入らず、500形のなかでも小ぶりな電車が主に使われていたようです。
したがって既存の区間のように線路に石畳が敷かれることはなく、四条通のまん中を走るのに、ほとんどの区間で枕木とレールがむき出しで、時に砂ぼこりが舞い、時にぬかるむ状態だったようです。
乗り降りの安全地帯もなく停車した時の扉の位置に簡単な踏み台が置いてあるという粗末な設備でした。
なお他の路線は数字の系統板が付けられていましたが、この梅津線だけは「梅津線」という文字書きの系統板をつけて走っていました。

終点の梅津付近
トロリーバスの試運転が始まっている

ところでトロリーバスですが、先の四条大宮~西大路四条間だけでは効率的でないので梅津に車庫を設けて昭和33(1958)年12月からは四条大宮~梅津間に延長されることになりました。つまり昭和20年に開業した梅津線はトロリーバスに置替えられ、わずか13年間の短命路線となったのです。今では地元でも市電梅津線はもとよりトロリーバスが走っていたことを知る人は少ないでしょう。

市電梅津線をトロリーバス(無軌条電車)に置き換えることを知らせる看板
〈参考文献〉
日本鉄道旅行地図帳 新潮社
車両基地86号 鉄道友の会京都支部
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この記事を書いたライター

 
昭和30年京都市生まれ
京都市総合教育センター研究課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 
|鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長|京都市電/嵐電/京阪電車/鉄道/祇園祭