京都市都心部の小学校が保存活用され、ホテルや地域施設として利用されている事例が注目されています。元清水小学校と元立誠小学校です。これらの小学校は「番組小学校」と呼ばれ、教育機関であるだけでなく町会所や行政の出先機関でもあったので、地域住民にとって愛着があるばかりか、地域自治に欠かせない存在でした。そこで、「活かされる『番組小学校』」と題して、旧校舎を保存活用している場所を訪ね歩きます。初回は元明倫小学校です。
日本最初の小学校、「番組小学校」
京都市都心部の小学校は、明治政府による学制発布(明治5年)の3年前、1869(同2)年に64校の番組小学校として誕生しました。これは、江戸時代まで続いた地域の自治組織「町組」が明治になって65の町組に改正され、町組ごとに小学校と町組会所を併設する施設の開設が進められた結果、64の町組会所兼小学校が日本で最初に発足したもので、上京○番組小学校などと称したことから、番組小学校と呼ばれています。その後小学校に漢字の名称がつけられ、それにともない学区も漢字の名称になっていきました。
このように番組小学校は、単に教育機関であるだけでなく、町会所や府の出先機関でもありました。交番や望火楼を設置し、ごみ処理や予防接種などの保健所の仕事も行っていて、いわば総合庁舎としての機能を果していたのです。しかも、その経費は町組ごとに負担していたので、都心部の住民にとって各学区の小学校への思いはひときわ強いのです。
下京3番組小学校、元明倫小学校
明倫小学校は、1789(寛政元)年に移設された心学道場「明倫舎」の建物を校舎とし、1869(明治2)年に下京3番組小学校として創設されました。その場所は現敷地の東側最奧部分(敷地250坪)であり、錦小路通に正門を置き細い路地で校舎に通じていて、正門の跡は現在も残っています。校地の確保には大変苦労されました。開校6年後、西側土地493坪を購入して正門を室町通側に移し、正門両脇に教室2棟を新築。その後も本館及び講堂の新築や雨天体操場等の増築が行われ、1901(同34)年には北側奥部分に225坪の校地拡張を行い、校舎の増改築が行われました。さらに27(昭和2)年に校地が210坪拡張され、現在の旧校地の形状に至ったのです。
現存する旧校舎は、昭和天皇御大典事業として全校舎の改築が断行されたものです。建設資金は、学区民の寄付40万円と積立金約18万円の総額58万余りで挙行され、京都市営繕課の設計で30(同5)年1月着工、翌年10月に全校舎が竣工しました。室町通に面して鉄筋コンクリート造地上2階・地下1階建ての本館、その奧に鉄筋コンクリート造3階(一部4階)建ての教室棟2棟が建っています。本館は、軒廻りの庇にスパニッシュ風に瓦屋根を載せ、西面2階のバルコニーが外観を特徴づけています。本館1階は西側に校長室や学務委員室などが並び、その奧に雨天体操場が設けられ、2階には畳敷き(78畳敷)で純和風書院造りの集会室と講堂が配置されました。本館と北教室棟とは渡り廊下で繋がり、そこにスロープも設けられています。
旧校舎の保存活用、「京都芸術センター」
しかし、都心部のドーナツ化現象の進行と少子化の影響で児童数が急激に減少し、明倫小学校は1993(平成5)年に124年の歴史をもって閉校しました。そして明倫小学校の旧校舎を保存活用して誕生したのが「京都芸術センター」です。同センターを明倫小学校の跡地に創設するまでには、2つの重要な取組がありました。一つは、京都市の中核的な行政課題として芸術文化を位置付け、その振興の推進力となる拠点づくりを進める取組であり、もう一つは、番組小学校の中でも市中心部に位置する明倫小学校の跡地に、同センターを設置することの市民理解を得る取組でした。
前者について京都市は、東京一極集中や各都市の文化振興への積極的な取組等から、京都の文化想像力・発信力の相対的な地位の低下に強い危機意識を持ち、96(同8)年に「京都市芸術文化振興計画―文化首都の中核をめざしてー」を策定し、計画実現のため京都の芸術文化振興の推進力となる中核的な拠点(「京都アートセンター」(仮称))を設置する必要があるとしました。
後者については、小学校閉校後の跡地活用策を検討するため、94(同6)年に都心部小学校跡地活用審議会が設置され、2年後答申がまとめられましたが、その審議中の95(同7)年に、市中心部の小学校跡地3か所(明倫小、龍池小、春日小)が第5回「芸術祭典・京」の会場として初めて選ばれ、元明倫小学校では音楽・舞踏部門とプレイベントが催されました。明倫小学校跡地を芸術表現の場とする試みは、95年・96年の芸術祭典・京に続き、97年の「アートアクション京都97」でも実施されました。こうして若い芸術家たちの活動が地域住民に理解され、京都芸術センターの場所が元明倫小学校に決まっていったのです。校地に残る旧校舎は全面的に保存活用されることとなり、99年に耐震補強・エレベーター設置等の改修工事が行われ、2000(同12)年4月京都芸術センターがオープンしました。そして、元明倫小学校校舎は08(同20)年に国の登録有形文化財となりました。
元明倫小学校の界隈
明倫学区には祇園祭の山鉾が14基もあります。明倫小学校の周囲では、前祭のときに南側の錦小路通で占出山、西側の室町通で山伏山が据えられ、後祭のときには北側の蛸薬師通で橋弁慶山が据えられます。祇園祭が行われる7月中はこの番組小学校の周囲で賑やかに祭行事が繰り広げられたわけです。
参考文献●京都芸術センター《京都芸術センター開設10周年記念誌》京都芸術センター、2011.8.1
●京都芸術センター(旧明倫小学校)《京都市の近代化遺産〈近代建築編〉》京都市文化市民局、2006.6
●「芸術創造拠点と自治体文化政策 京都芸術センターの試み」松本茂章、水曜社 2006
●町組改正と小学校《フィールドミュージアム京都》
●心学講舎・明倫舎から、明倫小学校へ《京都市学校歴史博物館研究紀要 第5号》高野秀晴、2016.12