室町時代前期、南北朝の統一を果たし、守護大名達を抑え権勢を極めた三代将軍 足利義満の時代、豪華絢爛な北山文化が花開きました。義満の孫である八代将軍 足利義政は、幽玄枯淡(明確にはとらえられない日本的な美の風情)を特徴とする東山文化が開花させました。
室町時代前期、南北朝の統一を果たし、守護大名達を抑え権勢を極めた三代将軍 足利義満の時代、絢爛豪華な北山文化が花開きました。義満の孫である八代将軍 足利義政は、幽玄枯淡(明確にはとらえられない日本的な美の風情)を特徴とする東山文化が開花させました。
豪華絢爛な鹿苑寺(金閣寺)と、落ち着いた風情が、洗練され自然と外ににおい出た閑寂さを持つ慈照寺(銀閣寺)との建築は対照が鮮やかで、足利義政(慈照寺/銀閣寺)の東山文化の潮流の中で、この頃日本文化の 基本的性格の多くが規定されることになりました。
現代においても伝統芸能・日本文化の継承として認知されている 、茶道・華道・能楽の基本的な形式儀礼は 室町中期に確立しますが、 八代将軍 足利義政は慈照寺(銀閣寺)東求堂の書院造(書斎を兼ねた武家住宅)の小さな座敷に日本初の茶室(同仁斎)を設置しました。 慈照寺(銀閣寺)にある東求堂の中の一室である同仁斎は、将軍である足利義政の書斎と居室を兼ね備えたものですが、広さはたった、四畳半しかありません。
用の美を追求し極限にまで不要な装飾を削ぎ落とした「同仁斎」という部屋の名は、 「聖人、一視同仁」(聖人はすべての人間を平等に取り扱う) という言葉に由来しいます。 将軍である義政自身が被差別者であった河原者(技能者)・芸能の民らと盛んに交遊を持っており、「一視同仁」に象徴される平等思想を重んじていました。
日本には平安時代に唐の茶が貴族の嗜好品として輸入されますが、 清浄な水に恵まれた日本では 水を煮沸して飲む茶は、中国・朝鮮のように必需品としてはあまり用いられませんでした。 しかし、鎌倉時代に禅宗僧侶の栄西や道元が 健康増進・意識覚醒のための「薬」として茶を再び日本に持ち込み、栄西は源実朝に健康のための喫茶習慣を勧めました。
やがて、その喫茶行為に高尚な精神的・文化的意味づけを足利義政(慈照寺/銀閣寺)と交遊のあった村田珠光(むらたしゅこう:1423年〜1502年)が与える事になります。これが茶の湯文化の登場です。村田珠光は喫茶の礼儀作法を考案した 能阿弥(のうあみ)の弟子とされ、 喫茶の作法と仏教、とりわけ禅の境地を融合した独自の 「茶の湯(わび茶)」を創始する事になります。頓知(とんち)の一休さんで有名な一休宗純に参禅し(禅の哲学を学ぶこと)、 珠光は表面的な粗末さの中の風流な輝きを発見し、日本社会の見過ごされた価値を再発見し、総合芸術として表現し始めたのです。つまり社会の中に於いての真の価値あるもの。とは、「お金で買えないもの。」であり、その背景にある思想や思考である。
能の世界で云われる「幽玄」や「侘び」は、 室町時代の概念で、 「凍み氷りて、静かに美しく。」 と、いった世界は、 表面の技術を超えるべく、 厳しい精神から現れる何かを 見抜く力を求めるので、「寂び」はもの静かで落ち着いた奥ゆかしい風情が、洗練されて自然と外に、におい出たものなのです。
村田珠光は、茶器の価値を「華美」から「質素」へと180度転換させ、目に見えるモノの背景に価値を見出せる茶碗を尊重しました。珠光は、特別に研ぎ澄まされた美的センスを持つ者だけが分かる「粗末で枯淡な対象」の中に潜在する価値を本質的なものとして高く評価し、侘び寂び(わびさび)を重視する茶の湯(茶道)や庭園造形を編み出しました。
村田珠光が創始し、武野紹鴎(たけのじょうおう:1502年〜1555年)が 発展させた茶の湯(茶道)は、喫茶と禅を融合し、人や社会を大切に想う心である「おもてなしの時空・おもてなしの純粋な心」を芸術的に作法化したのです。茶の湯(茶道)は完全平等主義の理念につながる宗教的な側面も併せ持ち、 そして大坂 堺の豪商であった武野紹鴎は、京都 大徳寺で禅の修行を積み村田珠光の茶の湯(茶道)を一層深化させます。更にその弟子として世に登場するのが千利休なのです。つまり、侘び寂び(わびさび)は東山文化を背景とし、禅と茶の湯の精神から誕生した日本で誕生した独自の美的感性と言えるのです。
(つづく)