室町時代中期の僧であり茶人、「侘び茶」の創始者である村田珠光(むらた じゅこう)が記した「珠光の一紙目録(いっしもくろく)」によれば、茶の湯の起源は 三代将軍義満(鹿苑院)から六代将軍義教(普広院)の時代までに、唐物道具と唐絵(海外から輸入した美術品)などを代々に渡って収集した時代に遡る。
その後、八代将軍足利義政(東山殿)は、将軍に仕え芸能や書院飾りを司り、美術品の蒐集にあたった同朋衆と呼ばれる半俗半僧の秘書である、能阿弥(のうあみ)から村田珠光の話を聞かされた。
「奈良の称名寺に珠光と申す者がおり、茶の湯に三十年間身を捧げ、この道に志深き者で御座います。」能阿弥自身が珠光と語り合った事。茶の湯に関連して孔子、聖人の道を学べる事や、茶の湯者の心構え(茶の湯者の心構え二十箇条)、四季によって変化がつけられる飾りは名物のもたらす威光の賜物であり、
「御釜の煮え音は松風(仏教上の空気を浄化する風)をそねみ、飾る事によって思いもよらぬ道理を悟ることが出来ます。これに関連して申し上げれば、禅宗の墨蹟(ぼくせき)をもっぱら床掛けに用いますが、その由来は、一休宗純から贈呈された圜悟克勤(えんごこくごん)の一軸(墨蹟)を珠光が床掛けにした事が始まりで、以来、唯一の数寄として楽しむことになりました。茶の湯と墨蹟の関係は仏法そのもので御座います。」
能阿弥が感に耐えず涙を流しながら義政に話した茶の湯の素晴らしさは深夜まで及んだと記されている。八代将軍足利義政(東山殿)は能阿弥の話に感激し、即刻村田珠光を呼び、珠光を師匠に決め、「人生の楽しみは茶の湯に尽きる。」といった。その後、世間では諸大名はもちろん、洛中洛外茶の湯をしない者は人ではない。というほど茶の湯は大流行し、奈良、堺の町人、下々までことごとく茶の湯をしたいと思った。
足利義政(東山殿)は、配下の大名に下した命令と同じように京、堺の町人などを含め、茶の湯の点前(てまえ)の上手な者や、名物を所持する者を義政の茶席に呼んで、話し相手に加えていった。
このような話が世間に伝わるようになって、ますます町人達までもがこぞって名物道具を所持するようになっていった。後の安土桃山時代後期、千利休に二十年間茶の湯を学んだ高弟である山上宗二が記した「山上宗二記」によれば、
村田珠光には沢山弟子がおり、その中でも名が知られている有名茶人は、松本珠報(まつもとしゅほう:松本茶碗 松本釣花入所持)、篠(志野)宗信(しのそうしん:香の名人)、石黒道提(いしぐろどうてい:四十石茶壺所持)、粟田口善法(あわたぐちぜんぽう:燗鍋所持)、古市播磨(ふるいちはりま:盆石「残雪」 牧谿筆「濡鳥図」徽宗皇帝筆「蓬図」 柄杓立「篠耳」所持)、興福寺の最福院(さいふくいん:三ケ月茶壺所持)、引拙(いんせつ:茶壺「千種」 灰被天目茶碗、その他16点所持)などで、それぞれが専門分野を深めて探求していく事となった。
他にも「山上宗二記」には、海外の道具を集め、名物の飾り、それ自体を好むものは「大名茶の湯者」、道具の目利きができ、茶の湯の点前も上手であり、世の中の数寄の師匠として評判を得て、茶の湯を教授して身を立てる者を「茶湯者」。「侘数寄者」というのは、名物道具を一点も所持しない者であって、胸中の決心のみ、創意工夫のみ、功績のみというこの三つの条件を満たした者をいう。名物唐物を所持し、道具を選別する眼力をもち、茶の湯の点前が上手であって、今述べた三つの条件を満たした者、この茶の湯道に深く志す者を名人という。
「大名茶の湯者」以下のことは、武野紹鴎(たけのじょうおう)が追加した教えである。「茶の湯者」と言われる人物は松本珠報と篠(志野)宗信の二人である。「数寄者」というのは粟田口善法である。「茶の湯者」であり、「数寄者」でもあり、古今の「名人」というのは、村田珠光、引拙、武野紹鴎である。以上、これまで述べた大部分のことは、「村田珠光の一紙目録」に書かれていることで、それをそのまま引用したに過ぎない。その後、紹鴎が新しく書き加えたこともあるが、紹鷗が遠行して以来、三十年間は宗易(千利休)が指導者であった。
その宗易を指導者として仰ぎ、私、宗二が、二十余年にわたり宗易に質問したりして学んだ密伝を整理して書き改め、伝授にふさわしいものと私が考えた事を書き加えたものが、この一巻「山上宗二記」である。
いずれにしても、後掲のそれぞれに何故それを選んだかという目聞の理由があり、充分理由に注意してそれを学ぶことが大事であろう。「数寄者」としての覚悟は、禅の精神を全てに生かすことに尽きる。紹鴎は臨終に際して、「茶味と禅味は同じことである事をよく認識し、松にそよぐ風音を、耳を澄まして聞き取り、意志を高潔に保ち、俗世間の塵にまみれてはならない。」と、おっしゃったので参考にしてほしい。茶の湯に創意工夫をするということは、第一は会席であり、暁に客を招き、あるいは客として茶会に出掛ける行為に凝縮されよう。すでに人が試みた創意工夫を真似てはならない。会席が時代と共に変化したことは紹鴎の時代より明らかである。無批判に基本を習得し、骨格になる本質を身につけ、独自の工夫をせよ。
山上 宗二(やまのうえ そうじ)は(1544年)天文13年:戦国時代から(1590年5月19日)安土桃山時代:天正18年4月11日)にかけて生きた、堺の豪商(町衆)、茶人。屋号は薩摩、号は瓢庵。本姓は石川氏。子は山上道七で、千利休に20年間茶の湯を学んだ高弟である。茶の湯史上初めて、茶道を教えて身を立てた教授第一号であった。しかし、一方で茶の湯教授で生計を立てる手段とした事自体が口惜しいとも残し、何処までも高潔で潔く、全ての先達を愛し、後進を労った心を記している。
山上宗二が千利休に同行して茶会に出席している様子が当時の茶会記から確認され、茶匠としては豊臣秀吉に仕えていたが、天正12年(1584年)に理非曲直(道理にかなった)の発言で秀吉の怒りを買い、浪人した。この時、前田利家に仕えるようになるが、天正14年(1586年)にも再び秀吉を怒らせて高野山へ逃れ、天正16年(1588年)頃から自筆の秘伝書「山上宗二記」の写本を諸方に授けた。その後、小田原に下って北条氏に仕え、天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐の際には、利休を介して秀吉との面会が叶い、秀吉が再登用しようとしたが、仕えていた北条幻庵に義理立てしたため、再び豊臣秀吉の怒りを買い、耳と鼻を削がれた上で打ち首にされた。享年46。箱根湯本の早雲寺に追善碑がある。茶道史においては、天正年間の堺衆の茶の湯の基本史料となっている「山上宗二記」の筆者として重要である。著書は、他に「茶器名物集」「茶の湯珍書」などがある。
茶の湯は富める者も、そうで無い者も個性に応じ、評価される美学であり、実際に茶の湯はそうなのである。そこが茶の湯の面白さであり、醍醐味であり、これは一人の天才が網羅して築きあげるのではなく、競争と切磋琢磨の中で互いの良いところを吸収しあい、漆塗りのように幾人もの手で塗り重ね、絹織物のように何人もの手で織りなし、一つの新しいジャンルの文化、市場を創りあげて行ったと云える。
西洋文明と東洋文明の違いは、キリストやアッラーなどの絶対唯一を崇めるのではなく、我々の文明は「仏」という概念を中心に慈悲を専門とする観音菩薩、智慧を専門とする文殊菩薩、勇気を授ける専門家普賢菩薩というふうに、それぞれの仕事を分担し、統合すると云え、時代を経るごとに更に分化、特化して思考や技術を深めていく点にある。そして、数多くの菩薩達も悟りを開いた後、仏の世界に安住しているのではなく、再び悲喜渦巻く地上に降りてきて苦楽の海を果敢に渡って行くのである。