京都市で一番長い道
「碁盤の目」の町といわれる京都には、タテヨコ無数の通りがあります。その中で最も長い距離を誇るのが千本通です。北は北区の鷹峯から南は伏見区の京阪淀駅周辺まで、全長17kmにもおよぶ長~い道路が京都市を南北に貫いています。ちなみに、九条通より南は鳥羽街道とも呼ばれています。
ところで、みんな普通に「センボン」と呼んでいますが、そもそもなんで「千本」と名付けられたのでしょうか。千本というからには、何かが1,000本あるのでしょうか。今さらの素朴なギモンを解き明かしてみたいと思います。その前にまずは千本通の歴史をサクッとご説明します。
時は昔、794年のこと。ウグイスが鳴いたかどうかは知りませんが、平安京が造営されました。皇居すなわち大内裏の玄関である朱雀門から、平安京の入口となる羅城門まで一直線に向かうその道を「朱雀大路」といいました。この朱雀大路が後の千本通の原型となります。
平安京のメインストリート
朱雀の読み方は「すざく」「すじゃく」「しゅじゃく」のほか「あかすずみ」と読む説もあります。鳳凰や麒麟と同じく中国からやってきた想像上の神獣です。東西南北の4つの方角を司る神様がいて、東は青龍、西は白虎、北は玄武、そして南を守っていたのが朱雀でありました。つまり皇居の南を守るべく朱雀大路が敷かれたわけです。
ちなみに、私は京都府立朱雀高校の出身ですが、恥ずかしながら在校時はそんな由緒ある通りとは知らずに、すぐそばの千本通を徘徊しておりました。さて、この朱雀大路の全長は約3.7km、道幅はなんと85mもありました。現在の堀川通でも50mくらいです。クルマのない平安時代に、バカでっかい道を作ったのは、天皇の権威の象徴としての意味あいもあったのではないかと思われます。そんな平安京の象徴ともいえる朱雀大路でしたが、水難や大火事、さらには源平の戦いもあって平安京の中心はどんどん東に移っていき、気がつけば朱雀大路は平安京の西の端になっていました。
で、なんで「センボン」なん?
それでは本題の「なんで千本通なん?何が1,000本あるの?」の謎に迫ります。これには3つの説あります。ひとつは「千本の桜が並木をつくっていた」というもの。千本通鞍馬口下ルに千本閻魔堂(引接寺)という寺があります。この地は遅咲きの桜で有名な「普賢象桜」誕生の地として知られており、後小松天皇や足利義満将軍も観桜を楽しんだといわれています。この「千本の桜説」は雅な平安京のイメージにぴったりですね。
続いてご紹介するのが「千本の松」説です。学問の神様 菅原道真は藤原氏の陰謀により左遷され、太宰府で失意のうちに亡くなります。その後、道真公が怨霊となって京に禍をもたらしていると実しやかに語られ、霊を鎮める場所を模索していたところ、「道真公を祀るのであれば北野の地にせよ」というお告げがあったというものです。なぜ北野だったのか?この地には「一夜にして千本の松が生えた」という言い伝えがあったからです。つまり、この説は全国の天満宮総本社にあたる北野天満宮が、北野の地に建てられた由縁にもなります。もともと北野の一帯は松林が多く、縁起のよい松が生える場所に道真公を祀ったのはナットクいきます。しかし、北野と千本通りはけっこう離れていて、千本通りの由来としては少々弱いかな、というのが私の感想です。
かつては死者の通りだった
そこで、もっともらしく語られているのが3番目の説で「道の両側に千本の卒塔婆が立ち並んでいた」というものです。卒塔婆とは故人の供養のために、お墓のうしろにニョキニョキっと立ててあるアレです。細長い板に読みにくい字で戒名が書かれています。
千本通北大路を東に入ると船岡山という丘のような山があります。この船岡山の西麓はかつて「蓮台野」と呼ばれた葬送の地でした。都から死体を蓮台野へと運ぶ際に、死者を供養するために千本もの卒塔婆を並べたことから千本通りの異名がつけられたというものです。卒塔婆が千本も並んでいる光景をリアルに想像してみると、かなり不気味ですよね。
この卒塔婆説には別の逸話「菅原道真の供養説」があります。道真死去から約40年たったある日のこと、日蔵上人(って誰?真言宗のお坊さんだそうです)の夢枕に醍醐天皇が現れます。実は道真の左遷を実際に命じたのが醍醐天皇だったのです。そのとき地獄で苦しんでいた醍醐天皇は「自分が地獄に落ちたのは、無実の罪で道真を左遷したからだ。だから道真の供養として、千本の卒塔婆を立ててお経を読んでくれ」と日蔵上人に頼みます。夢からさめた上人は言われたとおり、船岡山に千本の卒塔婆を立てて弔いました。その船岡山から南に通じる道を千本通と名付けた…ということです。この説の真偽よりも「天皇も地獄に落ちるんだ…」ということに驚いてしまった私なのでした。
▶︎学問の神様・菅原道真の皮肉な人生とは?とまあ、さすがは平安京のメインストリートにふさわしく、出生のヒミツを3つも持つ千本通なのでした。それぞれの説を支持する学者がいらっしゃいますが、平安ロマンを愛する私としては桜説を推したいところです。
庶民の街として
千本通がいつから「センボン」とよばれるようになったかは定かではありませんが、江戸中期の地図には、その名前が確認できるそうです。以降、千本通はさまざまな顔をもつ街として変化を遂げていきます。
ところで、京都市民が千本通りと聞いてパッとイメージするのが北大路通から丸太町通周辺まででしょう。このあたりは西陣エリアと呼ばれ、西陣織の全盛期には、千本通りは一大娯楽街となり、職人や商人たちが憩いを求めて通いつめました。千本中立売には「五番町夕霧楼」の舞台でもある遊郭街「五番町」があり、新京極にちなんだ「西陣京極」にはストリップ劇場もありました。
▶︎女性にもおすすめ!魅惑のストリップ劇場また、千本通は映画の街としても名を馳せ、往時には一条通から出水通の約500mの間に4軒もの映画館が連なっていたものです。その中にはゲイ専門のポルノ映画館もあるなど、昭和の千本通はディープな香ばしさがプンプンしていました。現在の千本通はずいぶんと様変わりをしましたが、「下駄ばきで楽しめる通り」といわれた当時とかわらず気さくな商店街として市民に親しまれています。
千本通に込められた想い
千本通の歴史はある意味、京都の歴史を投影しているともいえます。平安時代初期の京都は、まさしく日本の首都として、その中央を貫いた朱雀大路(千本通)とともに栄えました。しかし、その栄華は長く続くことはなく、政治の実権が藤原氏に移るとともに朝廷は窮乏に陥ります。同時に平安京の西部である右京の衰退により都の中央も東に移り、朱雀大路は名ばかりの通りとなりました。やがて政治の中心も鎌倉や江戸など関東に移りますが、京都は依然として天皇のおわす都としての権威を保ち続けます。千本通も西陣の隆盛とともに、独特の存在感を放つようになりました。
♪まる たけ えびすに おし おいけ~ で始まる「京都の通り名 数え唄」のラストをご存知でしょうか。♪じょうふく せんぼん、はてはにしじん~ ですね。通り名の最後は千本通で締めくくっています。千本通がトリを飾っているのは、かつて平安京でメインを張ったストリートである朱雀大路への誇りとリスペクトからではないでしょうか。誇りもリスペクトも京都人が「ココロのたんす」に大切にしまっているもの。千本通が市内最長距離をもって京都を縦断している意味。そこにあるのは、朱雀大路の名残り、すなわち京都人の誇りを伝えるためだと私は考えています。