京見峠並びに氷室へ行くには、千本北大路から鷹峯街道を北上し、ドンツキを西へ折れホテル然林房から山林を更にしばらく北上すと、ポツンと一軒の茶屋が現れる。
京見峠
洛中北端の長坂口を出て長坂・杉坂を通り丹波・日本海を至る道が古くから開かれていた。若狭街道、または西の鯖街道ともいい、若狭小浜から都、京に海産物や諸々の品を夜を徹して運んだ。若狭国方面から上洛する際、最初に見下ろすことができた峠として知られており、京見峠と呼ばれていた。今では江戸時代に創業したという峠茶屋が一件残っており、古くから歴史の痕跡を今なお残していて、標高446mの峠である。
かっては夜景の名所であったが、京見峠からの眺めは、立ち並ぶ杉に遮られていて眺望が失われている。今では、サイクリング愛好家の休憩所として活用されている。
茶屋の前には石碑があり、京都の詩人・島岡剣石が、こぶしの花咲く頃に、この地に詠んだ歌が刻まれている。
うつせみの 寂しさ故に おく山の こぶしは白く 鎮(しず)もりて咲く
堂ノ庭城
杉坂と氷室の分岐点(氷室分れ)から500m入った道路左側の独立峰に築かれた小規模な山城がある。地名も山城で頂上には、国土地理院の三等三角点の標石(標高479.8m)が設置されている。縄張は帯状輪状となり、頂上の主郭は径約20~30mの平坦地である。
文献資料では、天文22年(1553年)室町幕府第13代将軍足利義輝が三好長慶に追放され堂ノ庭城に入った。義輝はさらにここから近江の朽木に逃れ、以降5年間は朽木で過ごした。また、明智光秀の丹波攻略への見張りの砦として活用されたのではないかと伝わる。
氷室と水無月
堂ノ庭城跡から北上すると、四方を山に囲まれた山間盆地が広がる。地名の起こりは、当地より禁中へ氷を調達するための氷室が設けられたことによる。村の入り口には、氷室神社が見え、村の西側の小高い丘の斜面に三ヶ所氷室跡がある。平成6年(1994年)に京都市登録文化財(史跡)として登録されている。神社前に駐車場がある。京都一周トレイル北山西部コースとして道が整備されていて、氷室への標識もある。
池に氷が張ると、さらに水をかけて厚い氷を作り、それを切り出して貯蔵した。発掘調査などから、直径5~8m、深さ2~3mのやや楕円形の窪地に杉の木の枝葉を敷き詰め、板を敷き、木の枝葉や萱で覆って貯蔵した。復元図を書いてみたのが下図である。
氷室から禁中まで、行列を仕立てて献上したのが習わしで、平安時代から東京遷都まで続いたと伝わる。氷を葦、萱で覆って馬で運んだ、あるいは天秤棒に杉の葉で包んだ氷を担いで運んだという。
旧暦6月1日は「氷の節句」と呼ばれ、氷室から取り出した氷を口にすると、その夏を健康に過ごせると言われた。しかし氷を口にできるのは宮中の高貴な人のみで、庶民にとっては夏の氷は手の届かない代物であった。そこで考え出されたのが、京都では6月に和菓子屋さん並ぶ「水無月」(みなづき)である。
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鷹ヶ峯から5㎞程の山間部に氷室の村がある。体力に自信があれば、サイクリングがお勧めだが、車なら離合のため大型車は避ける方が賢明である。遙か昔の平安時代から氷室の村から宮中まで、行列を仕立てて氷を献上される姿を思い浮かべると、感無量である。都会の喧騒を避け、一時の安らぎが得られる場所であり、是非訪れて見たいものである。