上京随一の繁華街として栄えた堀川京極 〜堀川団地にまつわる物語 その3〜

1. はじめに

この「堀川団地にまつわる物語」では、京都市上京区の堀川通り沿いに位置する「堀川団地」について様々な角度から紹介している。
3回目の今回は、堀川団地及び堀川商店街の前身である「堀川京極」について紹介させていただく。

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堀川京極とは、第二次世界大戦以前に堀川中立売から丸太町の間に西堀川通りの両側に形成された商店街であり、「上京随一の繁華街」と称されていたことは有名である。
しかしながら、この堀川京極については資料が十分ではなく、また戦時中の建物疎開でまちの形が大きく改変されているため、具体的にどんな商店街だったのか知らない人も多いのではないだろうか。

今回は、古写真や古地図といった資料、当時を知る地域住民への聞き取り調査を元に、堀川京極の様子や盛況ぶりに迫ってみることとしたい。

2.堀川京極とは?

まず、堀川京極の概要について紹介させていただく。
西堀川通りの両側に所々店が建ち始めたのは、江戸時代末期の頃だと言われている。
この界隈も幕末の戦火を受けるが、明治時代に入り、1871年(明治3年)からの京都御所での博覧会の開催、また1895年(明治28年)に堀川中立売より京都電気鉄道が延伸開通すると、下長者町を中心に小売店や飲食店が多数建ち並び、商店街としての様相を呈する様になる。
この頃に、新京極商店街の繁栄にならい、この地域の商店を堀川京極商店街と呼ぶようになったとされる。

写真1.昭和初期の堀川京極の入り口(中立売側)
(提供:堀川商店街協同組合)

大正時代中期になると、アーケードの前身にあたる鉄骨屋根のテントの設置、私費による舗装、自動車自転車止めが行われた。
堀川京極は西陣織産業を背景とする商店街であったため、幾度かの西陣機業の不況の影響も受け、閉店や移転の激しい商店街となっていた。
1927年(昭和2年)には不況を克服するため、他の商店街にならい、中立売~丸太町間259店舗が会員となり堀川京極会という商店街組合を結成する。
以後、共同大売り出し等が行われ、また西陣機業の比較的順調な成長も相まって商店街は活況を呈したとされる。
しかし1937年(昭和12年)日中事変が勃発で戦時色が強まり、1940年(昭和15年)企業統制、続く1941年(昭和16年)の太平洋戦争の始まりで店主である主人の多くが兵隊、徴用で軍需工場に行き、物資不足も重なり各商店は営業不振に陥る。
そしてついに1945年(昭和20年)3月、第3次建物強制疎開によって全商店が撤去され、商店街は消滅の日を迎えたとされる。



3.堀川京極の空間構成を再現してみた

先述の通り、戦時中の建物疎開により西堀川通りが消滅したため、現在は堀川京極の原型は残っていない。
古写真、古地図、地域住民への聞き取りを元に堀川京極の空間構成を再現することを試みたので、紹介させていただく。

図1.堀川京極の周辺地図
(京都市明細図を元に作成)

図1に京都市明細図を元に作成した堀川京極の周辺地図を示す。
さらに、図2に堀川京極を再現した断面イメージを示す。
これらの図を見ると、現在の片側の堀川商店街とは異なり、西堀川通りの両側に商店街が形成されている。
西堀川通りの道幅は2.8m〜5.4mとなっている。
また、店舗の奥行きは、西側で約24m、東側で約12mとなっており、西側店舗の奥行きが東側店舗よりも深くなっている。

図2.堀川京極の再現断面図
(作成:垣田悠三子)

東側店舗と西側店舗で内部の構成も異なっていたようである。
東側の店舗は、堀川ギリギリまで建物が建てられており、商店から堀川に降りることのできる地下室があったとされる。
この地下室は倉庫として使われていたという。写真2に東堀川通りから堀川を見た様子を示す。
この写真からも、堀川ギリギリまで建物が建っていること、堀川が建物の下の方に流れていることが分かる。
一方で西側店舗は奥行きが深く、蔵や離れがある店舗も多かったようである。

写真2.東堀川通りから見た堀川
(提供:京都府住宅供給公社)

写真3,4に堀川京極の通りと店舗の様子を示す。
西堀川通りには、アーケードのような鉄骨屋根のテントが設置されており、道路もアスファルトで舗装されている。
このことは当時としては珍しかったようであり、地域住民の方も最先端ということで自慢に思っているようであった。
写真4は、あづま湯という銭湯の写真であり、建物が3階建てとなっている。
堀川京極の建物の多くが町家形式の2階建てが主であったが、一部に3階建ての建物もあったようだ。

写真3.堀川京極の通りの様子
(出典:京都市に於ける商店街に関する調査)
写真4.あづま湯の様子
(提供:堀川商店街協同組合)

4.堀川京極の盛況ぶり

堀川京極が盛況ぶりについても、当時を知る地域住民の方からお話を聞くことができた。

堀川京極は、界隈の女中、番頭、丁稚の仕事終わりのたまり場となっていたそうで、夕方になると堀川京極をウインドウショッピングしながら散策する若者で賑わっていたようだ。
このように堀川京極を散策することを、当時「堀ブラ」と呼んでいたという。
仕事終わりに「堀ブラ」をする若者が多く、お客さんのピークは20-21時、どのお店も22:30頃までは営業していたようで、堀川京極は夜遅くまで賑わっていたと言われる。

店舗の中には、洋食屋、干しバナナ、アイスキャンディなど当時としては珍しいお店もあったという。
商店街の中はチンドン屋がねり歩き、活況したにぎやかな様子が伺えた。
また、常磐館や中央館と呼ばれる映画館も地域の方々には印象に残っていたようで、子どもたちが映画をタダ見しようとして怒られたことなど、子ども時代のエピソードを交えてお話いただいた。


5.建物疎開後の堀川京極

写真5.建物強制疎開後の堀川通りの様子
(提供:京都府住宅供給公社)

写真5に示すように、建物疎開により堀川京極は消滅したというのが一般的な史実である。
それでは、堀川京極の商店の人たちはどこに行ってしまったのか、地域の方への聞き取りを元に解き明かしたのが図3である。
この図では45店舗の移転先を明らかにしているが、堀川通りの西側に移転している店舗が多いことが分かる。
当時、第二次世界大戦による疎開に伴いこのエリアには空き家が多く存在していたようであり、その空き家に移転したようである。
この図に示すように、堀川京極は建物疎開によって周辺地域に面的に広がっており、これが堀川京極の最終的な姿と言える。

図3.堀川京極の店舗の移転先
(作成:垣田悠三子)

6.まとめ

今回は、古写真や地域の方へのヒアリングを元に戦前の堀川京極とはどのような商店街であったかについて紹介した。
堀川京極は建物疎開で消滅したのではなく、堀川京極は地域の中で面的に広がっていたと解釈することができる。
その後、旧堀川京極の店舗が20店舗堀川団地に入居し、堀川商店街に継承されている。
現在では、その頃から営業を続けているお店はほとんど存在しないが、堀川京極は消滅したのではなく、形を変えながら現代に継承されたと言えるのではないだろうか。

なお、今回の原稿は、主に2010年度に京都大学髙田研究室で実施した調査結果に基づいている。
調査にご協力いただいた地域住民の方々のおかげで堀川京極の様子を明らかにすることができた。
また、この調査を中心的に行ってくれたのは垣田悠三子氏であり、彼女の丁寧な聞き取りがなければここまで堀川京極のことを解き明かすことはできなかったであろう。
ご協力いただいた地域住民の方々、そして垣田氏への感謝の意を表しつつ、今回の原稿を締めることとしたい。

参考文献
京都商工会議所:京都市に於ける商店街に関する調査,京都商工会議所,1936
垣田悠三子:個人史から見た堀川商店街の変遷,京都大学修士論文,2011.3
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この記事を書いたライター

 
住宅計画研究者。博士(工学・京都大学)、一級建築士。
京都橘大学現代ビジネス学部都市環境デザイン学科・専任講師。
京都・大阪を主な研究対象として、これからのストック活用時代における住宅計画のあり方について研究している。

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