忘れられない京の事件簿 ~悲惨な現場が物語る京の歴史~【後編】
六角獄屋類焼
平安時代に建設された京都の牢獄であり、中京区六角通りに移転されてから六角獄舎と呼ばれるようになった。
日本で初めて山脇東洋が人体解剖を行った。解剖には死刑囚が用いられた。
池田屋事件後、尊王攘夷派の志士たちが投獄された。禁門の変では火勢に見舞われ、脱獄を防ぐために38名全員が処刑されたのである。
近江屋事件
1865年(慶応3年)11月15日坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された醤油屋。龍馬は額に致命傷を受けて落命。深手を負った中岡慎太郎も2日後に死亡した。王政復古を目前に控え、幕府が終わろうとしていた矢先の悲劇である。
実行犯は諸説あるが、京都見廻組の犯行が有力である。
龍馬と中岡の墓碑銘は木戸孝允が筆を執り、遺骸は東山の京都霊山護国神社墓地に葬られた。
伊東甲子太郎惨殺
1867年(慶応3年)、新撰組から離れていた伊東甲子太郎が、近藤勇に招かれた宴席の帰り、七条通り油小路付近で待伏せた新撰組により殺害される。東側の本光寺門前で絶命した伊東の死骸を引きずって置き、これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士が新撰組の隊士と切り合いになった。
陵衛士の墓は、朝廷の沙汰によって、代々の天皇の御陵をお守りする泉涌寺塔頭戒光寺につくられた。
山南敬助自害
山南敬助は、近藤勇らと共に新撰組を結成する。当初は副長、後に総長を務めたが、屯所移転問題を巡り近藤や土方歳三と対立を深め、最終的には脱走した。沖田総司の探索により大津で捕縛され、1865年(元治2年)、法度違反により壬生前川邸で切腹した。
ゆかりの女性・明里が出窓越しに別れたという。壬生屯所近くの光縁寺に墓がある。
徳川慶喜 大坂へ落ちのびる
最後の将軍徳川慶喜は大政奉還を発表した後、1867年(慶応3年)、二条城西門から会津藩主松平容保を伴って大坂に脱出した。二条城と将軍家との決別を見た門である。
内桝形タイプの埋門となり、柱には門番による落書きが残る。現在、外堀にあった木橋は取り払われている。
鳥羽・伏見の戦い
1867年(慶応3年)、幕府軍と官軍(薩摩藩)との戊辰戦争の初戦となった戦いである。
旧幕府軍には近代戦を熟知した指揮官が少なく、精鋭部隊を効率的に動かせなかった。朝廷は新政府軍に「錦の御旗」の使用を許可したので旧幕府軍は朝敵になり、大義を失った兵士の士気は著しく低下した。
慶喜は側近を連れて海路で江戸へ向けて脱出し、旧幕府軍は総崩れとなり、新幕府軍の勝利に終わった。
淀の妙教寺では砲弾が突き抜けた柱が残る。
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昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。
|自称まちの歴史愛好家|北野天満宮/今宮神社/千本通/明智光秀/怖い話
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