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2月初旬には節分行事が行われる。京都では、節分に家族で豆まきを行い、その後数え年プラス一個の豆を食べるという慣習があった。筆者の家では、豆を食べた後、それと同数の豆を再度選り分けて家族全員分の豆を半紙に包み、家族がそれぞれ身体の悪い個所を撫でた記憶がある。これは身体の病んだ部位を撫でることで、それを豆に託すことを意味していたのだろう。その後、家族の痛みや病あるいは災厄が移された豆は、鴨川へと流された。懐かしい思い出である。
▶︎関連記事「えっ!豆でそんなことするの?! ~京都の不思議な節分の行事~」を読むそもそも節分とは、元は立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日を指す用語である。その意味では、節分は1年に4回あることになるが、立春が古くは年の始まりと考えられていたことから、その前日である節分がもっとも重要視されるようになり、今日では、節分といえば新暦2月初旬の立春の前日を意味するようになった。
今日の節分行事は、平安期から宮中で行われていた「追儺」に由来するといわれている。追儺は、元は大晦日に行われていた疫鬼を祓うことを目的とした行事で、「鬼やらい」などともよばれた。追儺が元は年の瀬の行事だった名残として、今でも大晦日に豆まきを行う地域が残っている。
節分の諸行事は、季節の隙間である時期に、人間たちに襲いかかる目に見えない疫鬼や、さまざまな災厄を祓うために行われてきたものである。節分には「福は内、鬼は外」という掛け声とともに家の内外へ豆をまき、イワシの頭に柊の葉を刺したヤイカガシとよばれる呪物を戸口に掲げる習慣が伝えられている。京都では吉田神社、八坂神社、松尾大社、あるいは鞍馬寺、壬生寺、蘆山寺など多くの社寺で節分祭が行われている。
吉田神社の節分祭は、本宮と大元宮で3日間にわたって行われる。中心をなす追儺式は、節分前日の夕刻に本宮で行われる。平安時代より宮中において行われてきたものを古式に則って再現したものである。大舎人が黄金四つ目の仮面を被って「方相氏(ほうそうし)」に扮し、小童を多数従え、陰陽師が祭文を奏す中、方相氏が大声を発し盾を3回打ちながら舞殿をめぐる。最後に殿上人が桃弓で疫鬼を追い払う。鞍馬寺でも節分当日に方相氏が登場する本格的な追儺式が行われている。また蘆山寺では、赤、青、黒の三匹の鬼が登場する追儺式鬼法楽が行われる。
追儺式に登場する方相氏は、本来は目に見えない疫鬼を祓う役割を担う正義の味方で、強敵と戦うために恐ろしい形相の四つ目の仮面を被り、最強の武装で周囲を威圧したのである。それがやがて、目に見えない疫鬼の存在が忘れられてゆき、恐ろしい形相の方相氏自体が鬼とみなされるようになった。考えてみれば、まったくもって気の毒な話である。
ところで、節分の豆まきでは、多くの人たちが「福は内、鬼は外」と唱えるだろう。しかし日本には、豆まきで「福は内、鬼は内」と唱える土地がある。その一例が、青森県津軽地方の霊峰である岩木山麓にある、弘前市鬼沢という村だ。鬼沢には鬼神社が祀られている。そこでは鬼が御神体として崇められ、農業の守護神として人々の篤い信仰を集めている。
この村に伝わる伝説では、この地域はもともと痩せた土地で、作物の実りが非常に悪かったという。そこへ岩木山から下りてきたという鬼が現れ、せっせと荒地を耕し始めた。村人は、これはただの鬼ではないと思い、開墾が非常に困難な状況であることと、農業用水がどうしても必要であることを鬼に訴えた。すると鬼は「それでは力を貸そう」と言い、その後姿を消してしまった。ところが翌朝になってみると、荒れ地を潤すかのように、一筋の水の流れが作られていた。村人たちはさっそくその水を田に引き、以後、その水はいかなる旱魃にも決して枯れることはなかったという。村人たちは大いに喜び、鬼に感謝するため神社を建立して鬼神社と名づけ、村の名称も鬼沢としたと伝えられている。
岩木山は古くから山岳信仰の対象として、津軽の人々にとっては神聖な山である。鬼沢の人たちを助けた鬼は、もしかしたら岩木山の山の神だったのかもしれない。あるいは特別な土木技術を持った山の民や石工が、後に鬼に譬えられて伝承されてきた可能性もあるだろう。いずれにしても、岩木山の鬼は私たち人間の味方だったことは確かだ。
また群馬県藤岡市では「鬼恋節分祭」という催しが行われている。行事が行われる「鬼石」という地名に因んで、「福は内、鬼も内」と唱えることで、全国の追い出された鬼たちを招くのだという。さらに奈良県天川村に鎮座する、修験道の開祖役行者所縁の天河大辨財天社(天河神社)でも、節分には鬼を迎え入れるための「鬼の宿」という行事が行われ、豆まきでは「福は内、鬼は内」と唱える。それは、当社の神職は役行者の家臣である前鬼・後鬼の子孫であると伝えられているからだという。同様の伝承は奈良県吉野の金峯山寺にも伝わっており、節分に鬼を追わずに迎え入れるという事例は想像以上に多い。
さらに驚くことに、「鬼は内、福は外」と唱える神社がある。それは福知山市三和町の大原神社である。当社は安産を叶えてくれる神として古くから広域の信仰を集める古社で、神社の傍を流れる川合川の畔には、大変珍しい産屋が存在することでも知られている。
大原神社では、近年は村人が鬼役に扮しているが、昔は節分の深夜0時に、目に見えない鬼たちが本殿に入り、神の力で善良な存在へと改心して、その後村へ出て村人たちに福を授けたという。そのことから、今日でも豆まきでは「鬼は内、福は外」と唱えている。これは、かつてこの地を治めていた綾部藩主が「九鬼」氏であったことに因む慣習かと思われる。
大原神社のように「鬼は内、福は外」と唱えるという例は、筆者はこれまで聞いたことがない。
日本の鬼はきわめて両義的な存在であり、上記のような例からも、鬼は必ずしも悪の象徴であるだけではなく、人々を助けたり、人々に幸をもたらす存在でもあることがわかるだろう。少なくとも鬼は、人知をはるかに超えた強大なパワーの持ち主であり、それをマイナスと捉えると、人間に危害や災厄をもたらす、まさに悪鬼になるが、その力をプラスに捉えることで、人間にとってなくてはならない大切な助っ人にもなるのである。
そういえば、一昔前の子どもたちに人気の高かった「鬼ごっこ」も、近頃はあまり見かけなくなった。「鬼ごっこ」という語は近世末以降のよび方で、それ以前は「鬼ごと」・「鬼わたし」などとよばれていた。この「コト」とは「ママゴト」の「ゴト」と同様に、「儀礼」や「祭り」を意味する。すなわち「鬼ごっこ」は「鬼を中心とした儀礼」あるいは「鬼の祭り」という意といえる。このことから、「鬼ごっこ」のルーツは追儺、すなわち今日の節分に行われる「鬼追い」に求めるという仮説が提示されている。先述のように、追儺では方相氏が疫鬼を追い回して追放する。そのイメージが民間に流布して、近年では家庭での節分行事で、お父さんが鬼の面を被って子どもたちに豆を投げつけられる役を演じるという現象まで生じさせるに至った。このような追儺の様子を子どもたちが遊びの中に取り入れたのが「鬼ごっこ」の始まりであるという。
ところで、鬼役の子に課せられた課題はだれかを捕まえて鬼を交代させることにあり、それは大勢の中で自分だけが他の者とは異なる世界、つまり異界にいた状況から脱して、現世に帰還することをイメージさせる。逆に鬼でない子どもたちは、何とかして鬼にならぬように逃げ回るのであり、それは異界へと導く鬼から逃れることを意味した。ここに「鬼ごっこ」の醍醐味があるのではないか。そしてこのような両者の緊張感が、この遊びの人気を支えてきたのであろうと考えられる。