
京都の学区はとっても大事(前編)学区のルーツは戦国時代 -京都の「町」の不思議(その4)-
京都の独特の住所の話題の第4回、今回は「学区」のお話です。
前回、京都市の旧市街地では「番地は『町』ではなく(一部の例外を除いて)『学区』単位でつけられている」というお話をしました。公式の住所には出てこなかった「学区」の登場です。
でも京都の「学区」って、そもそも何なのでしょうか?
「そんなのどこの町にもある『小学校ごとに決められた通学区域』でしょ?
それがいまさらどうしたの?」って思われる方、そう考えるのが普通ですよね~
ところが京都では違うのです!
京都の「学区」の起源は今から500年近く前の戦国時代にさかのぼるのです!
さっそく戦国時代の京都を見て確かめましょう。
(なお現在、行政上は「元学区」と呼びますが、ここでは「学区」で通します)
信長も光秀もお世話になった! 学区のルーツ「町組」
応仁の乱の後、京都は「平安京」の名前とは真逆の「日本最凶の無法地帯」となっていました。室町幕府が治安維持能力を失ってしまったために、殺人、放火、強盗、婦女暴行、何をやっても捕まらない世の中になったからです。戦乱や土一揆での略奪、さらにこれに乗じたプロの強盗集団「群盗」の襲撃で、大商店の主人や貴族も命を奪われる恐ろしい世界になりました。
一方、都の中心部では四面町から両側町への変化が進んでいました。両側町だと町を貫く一本の道路を守ればいいので、交差点からの入口に木戸などを設けて門番を置き、町民の力で町を群盗などから守ったのです。
やがて隣の町とも群盗や火事の合図を示し合わせたりして協力し、さらに役人との交渉にも複数の町が集まって作戦を相談、共同で臨むようになりました。
こうしてできた町のグループが「町組(ちょうぐみ)」です。そしてこれが名前や構成を変えながら現在の「学区」につながっていきます。
さて戦国時代の京都の街は中央部分から人家が消えて上京と下京の二つの市街に分かれてしまい、それをたった一本の道路、室町通がかろうじてつないでいました。
そしてこの時代の上京の中心は「立売の辻」(今の室町上立売)、下京の中心は「四条町の辻」(今の四条新町)、この辻の周りの富裕な町から最初の町組、つまり学区の前身が誕生しました。
天文6年(1537)には下京の5つの町組の代表が足利義晴に年賀の挨拶をした記録があり、上京でも風流踊でエキサイト(?)した「立売四町」への三好長慶からの書状があります。織田信長の入京の時にはすでに上京・下京とも「町組」の制度が確立、実際に明智十兵衛光秀はじめ家臣連名で信長の施策を伝える書状が上京「立売組」宛てに出されています。すでに町組が自衛だけでなく統治者と町民との間をつなぐ行政組織の機能を持ち、信長もこの機能を京都の統治のために利用したことが分かります。
そして江戸時代になると市街地の拡大で新たに誕生した町が次々に加入、町組の数も範囲も大きく広がりました。
「番組」が生み、住民が育てた京都の小学校
さて明治維新で京都府が設置されると府もこの町組を行政組織として利用していきます。
府は町の組替も含めて図2のように不揃いだった町組の形を整え、上京と下京の境界を二条通から三条通に変更、新たな上京・下京別に町組に番号をつけて名前も「番組」と改めました。明治2年1月には上京・下京33ずつの66番組に整理、番組ごとに町会所を設置して地域行政・警察・消防・保健衛生などの拠点とし、さらに町会所に併設して小学校を設置することにしました。
そして5月には地域の小学校としては日本最初の上京第27番組小学校(のちの柳池(りゅうち)校)が開校し、下京第14番組小学校(のちの修徳校)でも授業を開始、その後7か月間にすべての番組が小学校を開校させて「番組小学校」が一気に誕生しました(図3)(2つの番組による共立校があるため学校数は64校)。


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京都市中京区生まれ、北区紫野育ち、民間企業に37年間勤務
祇園祭の魅力が忘れられず、定年を機会に埼玉県から帰郷、大学院に入学し民俗学を学ぶ
祇園祭を中心に京都の祭り・民俗行事、平安京の歴史、京都の地理・町の形成などを研究
京都府文化財保護課での祭り行事調査に参画中
現在、佛教大学非常勤講師、京都民俗学会理事、日本民俗学会会員
|京都の祭り・歴史研究家|京都の町名/京都の通り/番地/山鉾町
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