京都のお城といえば何といっても二条城。世界遺産にも指定されるなど、多くの観光客を迎える名所のひとつといえます。なかでも人気スポットは、大政奉還の舞台となった二の丸御殿です。しかし、江戸幕府の本拠はいうまでもなく江戸城でよすね。なぜ江戸ではなく、京都の二条城で大政奉還が行われたのでしょうか?
「家康の」二条城
現在の二条城は4代目とも5代目ともいわれています。足利義輝の二条武衛陣にはじまり、足利義昭の二条城、織田信長の二条城、豊臣秀吉の二条城(諸説あり)と、いずれも一時代を築いた武将の名が並びます。そして現在に至る二条城を建てたのが徳川家康です。
▶「家康以前に4つの二条城があった!?『京都史跡 一歩・二歩・散歩』」
家康が建てた二条城は、1601(慶長6)年、徳川家康の「京都屋敷」として計画され、1602(慶長7)年に工事が始まりました。この「1601~1602年」という時期に意味があると私は考えています。というのも、1600年の「関ヶ原の戦」で東軍、すなわち徳川方の勝利は決定したものの、江戸幕府が開かれるのは1603年のことです。つまり、二条城は「after関ヶ原~before江戸幕府」の状況で建てられたことになります。この時期、世論的には「現在の天下人は徳川家康だが、秀吉の後継者である秀頼が成人すれば、豊臣家が再び政権の座に就く」という見方もけっこうありました。
つまり、「天下は徳川のものか、豊臣のものか?」固唾をのんで見守っている、そんな状態だったわけです。特に豊臣方は楽観的にとらえていて、「家康はあくまでも豊臣家の家臣。幼少の秀頼の代理として政権を預けているだけ」というスタンスでした。この目論みは、ものの見事に裏切られることになったのは周知のとおりです。いずれにしても、二条城が建設された時期は、徳川でも豊臣でもないニュートラルな状況といえるわけです。しかし、当の家康は、「律義者」の仮面を捨て、徳川政権を築くべく着々と手を打っていました。そのひとつがこの二条城でした。
江戸幕府京都支社
二条城の公式ホームページには「二条城は1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍 徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです」と書かれています。これはいわば表の顔、つまりタテマエですね。なぜなら、三代将軍・徳川家光が1634(寛永10)年に上洛したのを最後に、約200年もの間、歴代将軍の誰一人として上洛していないからです。
そこで、二条城の実態を私なり解釈すると「江戸幕府 京都支社」という位置づけだったと思います。その機能は、朝廷の監視、西国大名とりわけ豊臣家の監視、そして京の地に御所と同格の徳川御殿を建てることで、徳川家の武威を示すものだったと考えています。特に、初期のころは「武威を示す」意味あいが強かったと思います。
そもそも、なぜこの場所に城を建てたのか?それは「二条通り」に位置していたからではないでしょうか。現在の二条通は、決して大通りとはいえませんが、当時は「二条大路」と呼ばれ、朱雀大路(千本通り)に次ぐ平安京のメインストリートでした。その二条通りにデーンとお城を構えることに意味があったのだと思います。
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二条城から始まった江戸幕府の歴史
人口1,400万人を誇る世界都市TOKYOをさかのぼると、江戸にたどりつくことは、皆さんご存じのとおりです。でも、その江戸幕府が京都で始まったことは、案外知られていません。1603(慶長8)年2月12日、朝廷は伏見城にいた徳川家康に宣旨、つまり天皇の命令書を送り、征夷大将軍に任じます。これを受けて家康は、3月20日に二条城へ入城、27日には勅使(天皇の使い)を二条城に迎え、将軍宣下を祝う儀式である賀儀を行いました。この一連の儀式をもって、徳川家康の将軍就任すなわち江戸幕府が誕生したわけです。
それから2年の時を経た1605(慶長10)年、家康は唐突に将軍職を三男の徳川秀忠に譲ります。これにより、将軍職を徳川家で世襲すること、もっといえば天下人の座は徳川家で独占し、豊臣家に返上する意志がないことを世に知らしめました。このときも秀忠は、伏見城で将軍宣下を受け、二条城から将軍拝賀の礼に参内しました。この後、伏見城が解体されると、二条城が京都における徳川家の本拠として位置づけられます。このように二条城から始まった江戸幕府は、特に初期のころは京都を重視していたため、徳川将軍家もたびたび二条城に赴くことになります。
信長・秀吉時代の終えんをアピール
ちなみに織田信長が建てた二条城は、将軍・足利義昭の居城であり、織田家のための二条城ではありません。信長の力をもってすれば将軍、そして天皇をも超える居城を築くことなど、たやすいことだったと思います。どうも信長は、安土に壮麗な城を築いたように、京都を重視していなかったように思います。対して、家康の二条城は「徳川家のための二条城」です。ここに大きな違いがあります。
もうひとつ、秀吉との対比も見てみましょう。秀吉が京都に建てたお城に聚楽第と伏見城があります。聚楽第は、秀吉の関白就任後に現在の京都市上京区に建てられたものです。関白秀吉としての政庁兼住居として色あいが濃く、現代の首相官邸のようなものといえます。秀吉といえば、その代名詞ともいえるのが大坂城ですが、意外なことに秀吉が実際にこの城に住んでいたのは築城から3年くらいだったと思われます。関白就任後は聚楽第に移り、関白を退き太閤と称してからは伏見城をその居宅とします。秀吉の辞世の句は「難波のことも夢のまた夢」ですが、太閤臨終の場は京都の伏見城でした。
さて、その聚楽第は秀吉の甥である関白秀次の謀反事件とともに、秀吉自身の手によって徹底的に破壊されました。伏見城は二条城の完成後はお役御免となり、1623年に解体されました。つまり、秀吉時代の栄華を偲ばせる城は姿を消すことになります。これらの流れからしても、「徳川の徳川による徳川のための二条城」が建てられた理由は、「信長・秀吉の時代は終わり、これから徳川の天下が始まる」ことを強烈にアピールするためであったことがうかがわれます。
豊臣徳川のパワーバランス
ところで、前述の秀忠将軍就任に大きなショックを受けたのが、豊臣秀頼の母である淀の方でした。彼女はよくいえば楽観的ポジティブ志向、悪くいえば時流が読めないタイプで、家康の天下は一時的なもので、秀頼成人後は政権が豊臣家の手に戻ると考えていたからです。現実を突きつけられた淀の方は、激怒しますが側近たちになだめられます。また、徳川方もこの時点では、これ以上事を荒げることはなく、秀頼を右大臣に昇進させ「将来の関白候補」であることを匂わせるとともに、家康の孫である千姫を秀頼に嫁がせるなど懐柔策を図ります。
しかし、その一方で豊臣家の力を削ぐべく着々と布石も打ちます。その最たる例が「太閤秀吉の供養」と称して、豊臣家に縁のある寺社仏閣への寄進を豊臣家に勧めたことです。言うまでもなく、秀吉の莫大な遺産を消費させるためです。家康が狡猾だったのは、加藤清正をはじめとする豊臣シンパの大名たちが「自分たちも豊臣家の手伝いをしたい」と申し出たところ、「これは豊臣家が主宰する事業であるゆえ、その必要におよばず」と一切の援助を禁止したことです。これに対し豊臣方、いやプライド高き淀殿は「この申し出を断れば豊臣家の威信に関わる」と、まんまと家康の口車に乗せられ大坂城から大量の金銀が流出されることになります。そして、この寺社への寄進が豊臣家滅亡への序章となるのでした。
後編では、家康が描いた豊臣家滅亡と天下泰平へのシナリオに、二条城がどう関わったかをお話しいたします。
参考文献徳川時代の古都/安藤優一郎
戦国時代の京都を歩く/河内将芳
秀吉没後の豊臣と徳川
徳川家康大全/小和田哲男
学校では教えてくれない戦国史の授業/井沢元彦
徳川家康の秘密/宮本義己
信長・秀吉・家康の連略戦術/佐々克明
戦国武将の「政治力」/瀧澤中
誤解だらけの徳川家康/渡邊大門
京都を歴史に沿って歩く本/武光誠
京都の大路小路/森谷 尅久
日本を創った12人/堺屋太一
戦国時代がわかれば日本がわかる/吉川哲史
よみがえる日本の城「二条城 篠山城 伏見城ほか」/学研
京都市HP「世界遺産元離宮二条城