4つの二条城

二条城と言えば、徳川家康が築城したお城を思い起こす人がほとんどだと思います。1603年、家康が京都御所の守護と上洛の際に宿泊所、居館として建てられたお城です。後に徳川慶喜が大政奉還の意思を表明した城としても有名です。家康の二条城は、3代将軍・徳川家光の時代に城の拡張や整備を行い、二の丸御殿などが完成します。因みに二の丸御殿は国宝です。この二条城には、現在、全国から観光客や修学旅行生が訪れていますが、世界遺産に認定されてからは世界からも大勢の観光客が訪れています。しかし、二条城と呼ばれるお城はこれ以外に、徳川家康より前に存在していました。しかも1城ではなく、4城も二条城があったのです。

義輝の二条城

まず最初に、お城のように堀や石垣で構築された足利義輝の武衛陣「二条御所武衛陣の御構え」と呼ばれる1城目の二条城です。

足利義輝の二条武衛陣

足利義輝の二条武衛陣

(下立売室町下る)

武衛とは兵衛府(宮中の守衛)のことをいい、当時は兵衛督(兵衛府の長官)をつとめた斯波氏の家号でした。この地は武衛陣と呼ばれ、斯波氏の邸宅がありましたが、応仁の乱で焼失してしまいます。しかし、この跡地に室町幕府の13代将軍・足利義輝が再構築して、1城目の二条城「二条御所武衛陣の御構え」を建てたのです。
でも残念ながら、ここも三好義継、松永久秀らに襲撃され、義輝は切腹し、邸宅も兵火により焼失してしまいました。現在もこの地を武衛陣町というのは、斯波氏の邸宅があったからです。

義昭の二条城

この後に将軍になったのが15代将軍・足利義昭(14代の足利義栄は8ヵ月だけ)であり、2城目の二条城がこの『(足利)義昭の二条城』です。

足利義昭の二条城(下立売室町角)

足利義昭の二条城(下立売室町角)

織田信長のバックアップで将軍になった義昭ですが、直ぐに屋敷(本圀寺)が襲撃されます。信長が京都に不在のところを狙われたのですが、命だけは助かります。知らせを聞いた信長は急きょ帰京し、義輝の邸宅跡に屋敷を再建します。僅か約70日で建てたと言われています。四方が390メートルととても大きく、二重の堀と三重層の天守、瓦には金箔が貼られ、将軍御所とも呼ばれていたそうです。しかし、次第に信長と義昭との関係が悪くなり、やがて義昭は追放され、3年後にこの城も解体される運命になりました。なお、この遺構の一部は信長の安土城に移されたそうです。
因みに、義昭の二条城の石垣が地下鉄烏丸線工事の発掘調査の際に発見され、広範囲(南北は、出水通りから丸太町通り近くまで)であったことを証明するために、今も京都御苑内(烏丸丸太町上る椹木口入る北側)に復元して残されています。

御苑内の義昭の二条城の復元石垣

御苑内の義昭の二条城の復元石垣

(烏丸丸太町上る椹木口入る北側)

信長の二条城

3城目の二条城は、『信長の二条城』です。信長は京の常宿として妙覚寺を利用していましたが、その隣にある二条家の邸宅(二条殿御池邸)の庭園(龍躍池)を大層気に入り、二条家を追い出して常宿とします。ここには大きくて立派な池があり、名園だったそうです。

信長の二条城

信長の二条城

(御池両替)

信長はこの邸宅を城として再整備し、防御に優れたものにするのです。ところが信長は暫くするとここを手放します。なぜなら、正親町天皇の皇子、誠仁親王に献上してしまうのです。
理由は信長がこの頃、権大納言(右大臣、左大臣に次ぐ天皇の側近の地位)と右近衛大将(宮中の警護のトップ)に任命されていたので、そのお礼として献上したのです。
もう一つの理由は、信長が正親町天皇を疎んじるようになり、朝廷との関係を優位に保とうと、誠仁親王に近づくための工作だったとも言われています。献上された二条城は、二条御新造、二条御所(下御所)と呼ばれるようになりました。
では、信長はどこを代わりの常宿にしたのでしょうか。それは、元の妙覚寺でした。信長が京に滞在したのは20数回に過ぎませんが、妙覚寺が18回、本能寺が3回と言われています。本能寺の変が起こったとき、信長はなぜか妙覚寺ではなく、ほとんど泊まることがなかった本能寺にいたのです。信長が常宿の妙覚寺にいたならば、もしかしたら助かっていたかもしれません。

本能寺の変の日、妙覚寺に泊まっていたのは信長の長男の信忠でした。彼は信長が襲われたことを知り、防御の堅い二条御所に行き、戦力を立て直そうと考えます。先ず中にいる誠仁親王らを城外へ送り出した後、二条御所に立て籠もります。しかし、明智光秀の大群に抗うことはできず、ついに城の周りを囲まれてしまい、自刃するのでした。そしてまた、この信長の二条城も焼失してしまいます。その後、秀吉が信忠の供養のために大雲院をこの地に建てるのでした。
 

秀吉の二条城

最後の4城目は、『秀吉の二条城』です。秀吉は本能寺の変の後、妙顕寺(小川押小路を西へ)を常宿としていました。しかし、信長を意識したのでしょうか、妙顕寺城、すなわち『秀吉の二条城』を築くために、妙顕寺を現在も実在する小川寺之内に移転させるのでした。

妙顕寺城跡石碑

妙顕寺城跡石碑

(小川押小路)

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この記事を書いたKLKライター

KBS京都 常勤監査役
今川 博明


京都市左京区出身。
歴史に興味をもち、関西大学文学部史学科を卒業。
KBS京都(京都放送)に入社、現在は常勤監査役。
京都の史跡を多くの方に伝えたくて、京都史跡ガイドボランティア協会員として活動中。

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