徳川家康と二条城/【中編】大坂の陣への導火線「二条城の会見」

クイズ「豊臣政権の五大老」の解答はこの後すぐ下の図にあります。

2代将軍秀忠、二条城にて誕生

豊臣秀吉が存命中の徳川家康は、豊臣政権の大老として仕えていました。また、家康の孫である千姫は、秀吉の後継者・秀頼の許嫁(いいなずけ)です。すなわち豊臣・徳川の両家は縁戚でもありました。この絆を頼みとして、秀吉は豊臣家の行く末を案じながらも家康に託し、その生涯に幕を閉じました。しかし、関ヶ原の合戦で勝者となった家康は、征夷大将軍として江戸に独自の政権を敷きました。そこまでは豊臣家にとっても許容範囲でしたが、家康はわずか2年で将軍の座を息子の秀忠に譲ります。これは明らかに「政権は徳川家で世襲し、豊臣家には返さない」意志の表れでした。本章では、この秀忠将軍誕生からから豊臣徳川の会戦、つまり「大坂の陣」に至るまでの経緯をみていくことにします。

1605(慶長16)年、家康は突然10万の大軍とともに、上洛の途につきます。その大将は家康の後継者と目される三男・秀忠。いったい何の目的で上洛するのか?上方は騒然となります。徳川一行は、ひとまず伏見城に入り、迎えた4月16日、朝廷の使者が秀忠を征夷大将軍に任ずる旨を告げました。その後、二条城に入った秀忠は将軍拝賀の礼に参内、これにて正式に2代将軍・秀忠が誕生しました。この寝耳に水の出来ごとに、豊臣方はショックを隠しきれませんでした。特に秀頼の母である淀の方を激怒させたのが、将軍就任の祝いとして秀頼に上洛を要請したことでした。一説によると「徳川に膝を屈するくらいなら、親子ともども自害する!」と言ったとか…。なぜ、それほどまでに淀の方は頑なに上洛を拒んだのでしょうか?その説明をするには「上洛」がもつ意味を知っていただかねばなりません。

太閤秀吉が絶対的存在の社長として君臨し、次期社長の座も息子の秀頼に内定していた。重役陣は「五大老」と呼ばれる大大名が務め、その執行部隊として「五奉行」の面々がいわば取締役部長的な位置づけとされた。地方には支社が置かれ、支社長には島津や伊達など外様の大大名に加え、小早川・加藤・福島ら秀吉の縁戚や子飼い大名が名を連ねていた。

上洛が意味するもの

現代でも京都の中心部を「洛中」、また京都に来ることを「入洛する」という人がいます。平安時代、都である京都を中国の都になぞらえて「洛陽」と呼んだことが、その語源とされています。ちなみに、もうひとつの中国の有名な都に「長安」がありますが、平安京では左京を「洛陽」、右京を「長安」の別称としていました。その後、右京が衰退したため左京の「洛陽」が主流となり、そのまま「洛」が京都を表す言葉として残った…という説もあるそうです。ついでにいうと「京」も「洛」もどちらも「みやこ」の意味をもち、当時は公的には「京」を、俗称として「洛」を用いることが多かったようです。


▶結構あいまい…京都の「洛中洛外」とは?

さて、時代は下り戦国の世になると「上洛」は2つの重要な意味を持つようになります。1つは、天下人であることを誇示するためです。ひと昔前の戦国ドラマのオープニングでは「天下が麻のごとく乱れる戦国の世にあって、武田、上杉、毛利、今川など有力な大名たちは『我こそは天下人たらん』と、こぞって京の都を目指した」的なナレーションが定番でした。また「戦国時代がいつをもって終わったとするのか」は諸説ありますが「織田信長が上洛を果たした1568年」説もその候補のひとつです。このように中央である京都を押さえることは、天下を治めることを意味していました。なお、現在では「天下」とは、全国ではなく、近畿地方である畿内を制圧することではないのか?という説も盛んに議論されています。

さて、上洛のもうひとつの意味は、「上洛を命ずることで諸大名を従属させる」ことでした。カンタンにいえば「ワシのほうが偉いんだから、あいさつに来い」という意味です。実際、上洛した信長は諸将に上洛を命じ、それに従った大名は自動的に織田家の配下となりました。秀吉も同様に関白の座についてからは、大名たちに上洛命令を出すことで、戦わずして豊臣政権に組み入れていきました。本能寺の変からわずか8年で秀吉が天下統一を成し遂げられたのは、この降伏勧告作戦によるところが大きいと思います。逆に上洛を命じられた側にとっては、相手に服属することを意味しますから、お家の一大事としての決断を迫られることになります。大河ドラマ『独眼竜政宗』では、秀吉の上洛命令を再三にわたって拒む伊達政宗の苦悩が克明に描かれていました。「俺は生まれてくるのが遅すぎた…」と、むせびながら枕を濡らす渡辺謙さんの名演が忘れられません。

秀吉亡きあとの実権をめぐって争った関ヶ原の合戦で覇権を握った家康は、社長代理として豊臣カンパニーの人事権を手中にする。石田三成ら反徳川派は解雇、または大幅降格の断を下される。これらの争いを淀の方をはじめとする豊臣方は「あくまでも豊臣カンパニー内の派閥抗争」と認識していた。

家康、起つ

で、話を戻しまして、徳川方は豊臣秀頼に「将軍就任の祝い」と称して上洛を要請します。ここで「命令」ではなく「要請」というスタンスをとったところに、両者の微妙な力関係が表れています。ニュアンス的には「よかったら来てくださいよ」といったところでしょうか。とはいえ、意味するところは「豊臣は徳川に従え」と言ってることに違いはありません。この時、秀頼は数えで13才。政治的判断を下すのはまだ無理な年齢です。すなわち、豊臣家の実質的支配者である淀の方によって判断がなされるということです。誇り高き彼女が、それを受け入れるわけもなく拒絶します。本来ならこの時点で両者は手切れとなり、合戦におよんでもおかしくない状況です。信長であれば、それこそ「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」のごとく、ただちに刃を向けていたことでしょう。その結果、四方八方を敵に回してしまったのが信長でした。しかし、そこは老練な家康のこと、時期尚早とみて事を荒立てるマネはしませんでした。

このあと、しばらくの間は両家に表立った波風は立ちませんでした。ただし、前編で述べた「故太閤秀吉の供養」と称した寺社仏閣の工事は各地で続けられます。ちなみに、重要文化財である相国寺の法堂や、北野天満宮の国宝 御本殿などは、この時期の豊臣家によって建立されたもので、秀頼は京文化の発展に大きく寄与していたことになります。

そして、月日は流れて1611(慶長16)年3月、ついに家康が動きます。後水尾天皇が即位するにあたって、4年ぶりに京の地を踏むことになった家康は「二条城にて秀頼公と面会したい」と豊臣家に通告します。この時も淀の方は「断固突っぱねるべし!」と、その姿勢を崩しませんでしたが、6年前の1605年当時と比べると豊臣徳川の力の差は広がる一方で、前回のようにウヤムヤにできる状況ではありませんでした。また、秀頼も19才と当時でいえば立派な大人に成長していました。そこで豊臣恩顧の加藤清正らの必死の説得もあって、秀頼は上洛を決意します。

こうして家康と秀頼の面会が8年ぶりに実現することになりました。両者の対面は、家康が征夷大将軍に就任する前にまでさかのぼります。家康は豊臣家臣として秀頼親子に拝礼していました。しかし、今回は立場も実力も大きく変わっています。果たして両者の対面はいかなるものだったのでしょうか?

ついに家康が独立を果たし「徳川カンパニー」を江戸に設立する。伊達や前田らをはじめとする支社長も「徳川カンパニー」の看板を社屋に掲げるいっぽうで、豊臣恩顧の加藤、福島らの支社長は徳川カンパニーに属するも、豊臣カンパニーとも誼(よしみ)を通じていた。また、豊臣サイドは「徳川カンパニーは豊臣カンパニーの子会社に過ぎない」との見解を示した。

両雄相対す「二条城の会見」

こうして迎えた3月28日、ついに家康と秀頼の対面が実現します。秀頼一行は竹田街道を上って京に入り、午前8時ごろ二条城に到着しました。家康は秀頼に敬意を表して玄関先まで出迎えます。御成の間に入った2人は「お互いに上座を譲ろうとした」そうですが、上座に着いたのは家康でした。高台院(ねね)や加藤清正も同席した会見は終始、和やかな空気のうちに2時間ほどで終了しました。

さて。
「この会見が対等であったのか?」については、諸説が唱えられています。対等説を主張する人は、「家康が丁重な姿勢をみせたこと、特に上座を秀頼に譲ろうとしたこと」をその根拠に挙げています。結果的に家康が上座に着いたのは「年長者であり、妻の祖父である家康を秀頼が立てたに過ぎない」としています。しかし、私はそんなことはどうでもいいことだと考えています。前述のとおり「家康の上洛命令に秀頼が従った」こと、これが全てです。つまり、この二条城の会見によって家康、いえ徳川家ははじめて豊臣家との関係を逆転させることができたという解釈ができます。もっとも、家康と秀吉の個人レベルでいえば、そもそも一国の大名である家康と、信長の下級家臣に過ぎなかった秀吉とで比較すれば、家康のほうが圧倒的に上であったのですが。

なお、この会見を終えた秀頼は午後から豊国神社を参拝するとともに、同じ敷地内にある方広寺も訪れます。このとき方広寺は慶長の大地震で倒壊していて、再建工事の最中でした。この方広寺の工事が、後に豊臣滅亡の引き金になるとは、この時の秀頼に知る由もありませんでした。こうして秀頼は無事に大坂城に帰還。大坂、京都の町衆は会見の無事、すなわち天下泰平を祝ったそうです。

家康は突如、社長の座を息子・秀忠に譲り、自らは会長として「駿府本社」を新たに設立する。豊臣カンパニーのシェアとは大きな差ををつけるに至り、豊臣シンパの支社長連も現実を受け入れるようになる。これらの流れを苦々しく思う真田幸村ら浪人衆は、臥薪嘗胆の思いとともにクーデーターをの機をうかがっていた。

家康を決断させたもの

しかし、みなさんご存じのとおり、史実は大坂の陣による豊臣家の滅亡を語っています。そして、家康が豊臣滅亡のシナリオを描く決心をしたのが、この二条城での会見だったといわれます。「和やかに」終わったはずの会見が、何ゆえに家康の心を動かしたのでしょうか?

ひとつは秀頼の成長ぶりです。19才となった秀頼は立派な体躯を家康の眼前に見せていました。また、その立ち居振る舞いも、さすがは織田家そして名門浅井家の血をひくだけあって堂々としたもの。2人を知らない人がこの場を見たならば、年老いた将と恰幅のよい若者、どちらがこれからの時代を担うのか?一目瞭然に見えたことでしょう。ちなみにこの時、家康は70才。70といえば「古希」といって「70才まで生きるのは稀なこと」とされた時代です。家康に残された時間は長くはありません。

加えて、家康の後継者である2代将軍・秀忠は治世者としての才はあるものの、一軍の将としては甚だ心もとない上に、政治的駆け引きの経験もありません。自分と秀頼、息子と秀頼を比べたとき、「自分の目の黒いうちに豊臣家を何とかしなければ…」そう家康が考えたであろうことは容易に想像できます。ただし、ここでいう「何とかする」が、豊臣家を滅ぼすことに直結するのかどうかは、意見が分かれるところです。これについては、後編で詳しく述べたいと思います。

家康決断のもう一つの理由は、豊臣恩顧の大名たちの結束ぶりを目の当たりにしたことです。豊臣系大名の代表格ともいえる加藤清正は会見中、秀頼のそばに終始いて「何かあれば大御所・家康といえども刺し違えん!」の覚悟で臨んでいたといわれています。また、他にも浅野幸長をはじめとした豊臣シンパの大名が二条城に控えていました。さらに、二条城にはいなかったものの、清正と並んで豊臣大事のスタンスをとる福島正則は直情的な性格をしており、いざとなったら何をするかわからない危険人物と目されていました。こうした状況が「鳴くまで待とうホトトギス」の家康をして、大坂の陣に走らせたというわけです。

いずれにしても、二条城の会見で「豊臣は徳川の風下に立った」ことは、覆しがたい事実となりました。世論はもちろん、豊臣系大名である加藤清正、福島正則らもそれは認めていました。おそらく豊臣秀頼本人もそうであったはずです。しかし、たった一人、どうしてもこの現実を認められない人物がいました。秀頼の母・淀の方がその人でした。
<後編に続く>

歴史的会見の舞台となった京都 二条城
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この記事を書いたライター

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
企業向けの広告講座や「ひみつの京都案内」
などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

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