京都転車台物語

いろいろな鉄道施設の中で、最も人気のあるものの1つが転車台(タ-ンテーブル)ではないでしょうか。蒸気機関車(SL)の向きを変えるために機関車を乗せて回転する装置です。そこで京都の転車台にまつわるお話を綴ってみました。

 

1 京都鉄道博物館(梅小路蒸気機関車館)の転車台

京都には現役の転車台、それも誰もが目の当たりにできる転車台があります。旧梅小路蒸気機関車館から京都鉄道博物館に引き継がれた大型の転車台です。このKLKでは以前に、戦争末期にこの梅小路機関区の転車台が原爆の投下目標になったというお話もしました。

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京都鉄道博物館では毎日「SLスチーム号」として蒸気機関車が2両の客車を引いて往復約1000mを走行するアトラクションがありますが、午後の最終運行が終わると機関車は客車から切り離されて転車台に乗り、別の線路に行って石炭を補充、さらに転車台に乗って扇形の車庫に収容されます。その間転車台では、数回機関車を回し、汽笛を鳴らしたり機関士が運転台から手を振ったりとサービス満点のパフォーマンスが繰り広げられます。これらを見ている子どもたちは大喜び。とにかく約100トンの機関車が目の前で回るのですから、それは大感動でしょう。そのうえ結構なスピードで回るのもちょっと驚きです。

京都鉄道博物館の転車台

この転車台はもちろん機関車のパフォーマンスのための舞台ではなく、方向転換したり転車台の周りを囲むようにして敷いてある扇形の車庫線や留置線に機関車を収容したりするための装置です。
特に梅小路機関区は東海道本線の要の機関区の1つでしたからC62やC59などの大型の機関車が配属されていたので転車台も国内最大級で、直径20.45mあります。
中心だけではなく、回転部分の両端でも荷重を支える3点支持方式で、操作室の下にあるモーターによって回転させます。そして目的の線路に合うようにピタリと止めると、爪のようなものを差し込んでレールがずれないようにして機関車は乗り降りするのです。

転車台に乗ったSLはいつも大人気

当然、転車台と周りのレールとの間には隙間があります。
そこを大きな車輪がガタンゴトンと音を出して蒸気を吐きながら通過していくときは、子どもでなくてもすごいなと思います。

 

2 今はない京都の転車台

かつてはSLが客車や貨車を引っ張るのが鉄道の普通の姿ですから、全国いたるところに転車台があり、京都駅の構内にもありました。
明治10(1877)年に開業した初代の京都駅(七条ステンショ)は現在の塩小路通に面したあたりに位置していたので、今の駅前広場一帯が駅でした。
その頃の転車台は西側の大阪寄りにあったのですが、平成9(1997)年、今の駅ビル建設に伴い周辺部の整備が進められる中、駅ビルの西側あたりからレンガ積みの丸い転車台の跡が出てきました。
京都市埋蔵文化財研究所によって発掘調査も行われました。

大正3年に開業した新しい京都駅(2代目)には駅の東側に転車台があった

続いて大正3(1914)年8月に2代目の京都駅が開業します。
それが現在の京都駅の位置にあたります。その時の転車台は駅の東側、高倉の跨線橋を渡って道路がカーブするすぐ内側にありました。
現在、鉄道警察隊の建屋があるあたりです。隣接して石炭や水を補充する施設もあり、東海道本線からSLが消えるまでありました。

山陰線(現JR嵯峨野線)は明治30(1897)年に嵯峨、その後明治32年に園部まで開通しますが、これは京都鉄道という私鉄からのスタートでした。
二条駅はそのとき本社も擁したメインの駅で車庫や転車台もありました。その転車台の跡が、同駅を高架にして周辺を整備する工事の中で平成10(1998)年に出土しました。
その時の写真をお見せしましょう。

二条駅構内から出てきた京都鉄道時代の転車台の跡

また園部には折り返し列車もあったので転車台がありました。
山陰線にSLの旅客列車が走っていた昭和46(1971)年4月まで現役でしたが、この転車台は上に乗ったSL自身の圧縮空気(空気ブレーキのための圧縮空気を作るコンプレッサーが機関車に付いていた)によって稼働させるという特別な仕組みでした。したがって機関車が乗るとエアホースをつないで機関車からの圧縮空気で動きました。

少し離れますが、福知山や東舞鶴にもSLが配置されていましたから隣接する機関区に転車台がありました。

またJR京都線の向日町と長岡京の間には大きな車両基地がありますが、その長岡京寄りに転車台があるのが電車の窓からチラッと見えます。
これはSLのためというより各車両の向きを変えるときのために設置されたものです。
しかし、次第に電車やディーゼル特急などが固定編成になり、1両ずつ切り離して向きを整え編成することがなくなりましたので今は使われてないようです。

JRの向日町の車両基地の大阪方にある転車台

3 電車の転車台

このKLKの前号でもお話しました市電堀川線(北野線)の前身である京電の堀川中立売には、明治33(1900)年に同所から北野まで延長されるときに東堀川通から中立売通に電車の方向を変えるための転車台が設置されました。

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堀川を斜めに渡る鉄橋は人家の買収が必要であったために実現されずに苦肉の策の転車台だったようですが、電車の向きを回転させて変えるという非常に珍しい光景でした。
2軸の電車の車輪間は約2.1mですから、それより少し大きい目の回転盤があればよかったので、貨車用の転車台を転用したようです。

そこに乗った電車はいったんポール(集電装置)を下げ、乗客が乗ったまま人力で回して向きを変え、またポールを上げて出発していきました。
人々は「車回し」とよんだようで、後に複線化されたときに堀川を斜めに渡る鉄橋が架けられ、転車台も廃止されました。
この電車の転車台の姿は、先般閉館になった子ども文化会館(エンゼルハウス)の壁面レリーフによく表現されていました。
ちなみにそこには「先走りの少年」も表現されています。

エンゼルハウスの壁面に掲げられていた堀川中立売の電車の転車台のレリーフ

4 バスの転車台

「バスの転車台」って何のことと思われるかもしれませんが、バスも結構車体が大きく、狭いところではバスの転車台がありました。市バスでは経路上の次の3か所にありました。

京阪中書島駅に隣接した位置にあった市バスのターンテーブル

市電伏見線が廃止になった後、市バスに代替されますが、市電時代と同じように市バスが中書島駅のすぐ横まで乗り入れました。しかし、電車時代のようにホームでそのまま折り返すことはできませんから、さらに奥に転車台が設けられ、系統によっては乗客を乗せたままそこでバスを転向させて発車していきました。

阪急桂駅西口にあった市バスのターンテーブル

現在のような西口のバスターミナルが整備される前に、洛西ニュータウン方面からやってきた市バスが乗客を降ろした後、転車台に乗って向きを変えていました。ターミナルが整備され、今のようにUターンして出ていくようになり廃止されました。

葛野大路と太子道がT字型に交差するところに、ここで折り返していた27系統が向きを変えるために昭和48(1973)年に設置されましたが、馬塚町を通り過ぎるように経路が変更され、ターンテーブルも廃止されました。

このほか、かつては市バスの錦林車庫の中や国道24号線と丹波橋通が交差する北東角に京都文教大学の送迎バス用のターンテーブルがありました。
少し離れていますが、阪急東向日駅に隣接している阪急バスの車庫にも設置されていましたが今はありません。

ちなみにバスのターンテーブルには2つの駆動方法がありました。
1つは電気のモーターで回すタイプで、ターンテーブルにバスが乗った時、ちょうど運転台の窓から手を出せば操作できるスイッチがぶら下がっていました。
もう1つはバスの後輪が乗る位置にローラーがあり、ゆっくりと後輪を回転させると、ローラーが回ってその回転がギヤを介してターンテーブルを回すというものです。
見た目だけで言ってますが、とりわけ後者のものは回転盤の下はメカニックなのでしょうね。

よく考えますと、街中にはパーキングやマンションの駐車場などに自動車用のターンテーブルはいっぱいあります。しかしやはり大きな機関車がグルっと回転するのは迫力があります。一度、鉄道博物館の転車台を見に行ってみてください。

(2020.9)

〈主な参考文献〉
日本鉄道旅行地図帳 新潮社
鉄道史料17号 鉄道史資料保存会
さよなら京都市電 京都市交通局
梅小路100年史 西日本旅客鉄道株式会社
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この記事を書いたライター

 
昭和30年京都市生まれ
京都市総合教育センター研究課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 
|鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長|京都市電/嵐電/京阪電車/鉄道/祇園祭