山鉾と神輿の意味って知ってますか?今さら聞けない祇園祭の素朴なギモン。


◆あわせて読むと、より深い祇園祭を知っていただけます。
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「明日」という言葉は「明るい未来」を意味する。私なりの解釈です。山鉾巡行が今年も中止となり、京都は2年連続で寂しい夏を迎えています。しかし、令和3年7月10日は祇園祭にとって、そして京都にとっての「明日」がほんの少し見えた、そんな1日であったと思います。スミマセン、話が見えてきませんよね。そのココロを語るためにも「祇園祭の本義」というと少々大げさですが、本稿のタイトルにある「山鉾と神輿の意味」について知っていただきたいと思います。 

祇園祭は山鉾巡行では終われない

申し遅れました、私儀、八坂神社中御座 三若神輿会の役員を務めております吉川哲史と申します。たまたまではあるのですが先祖代々、祇園祭にご奉仕する家系に生まれたご縁で神輿渡御に長年お仕えしております。

私は主に裏方として神輿に携わっており、ある年に観光ツアーの方に神輿のガイド役を仰せつかることがありました。その時、ツアーと関係のない通りすがりのオバちゃんたち(服装から明らか地元っぽい)から「へぇ~、祇園祭ってお神輿も出るんや」という声が耳に入ってきたことがありました。私は割りとムキになってしまう性格をしているらしく「そこのオバちゃん、『お神輿も』やなしに『お神輿が』出るのが祇園祭です!!」と声を荒げてしまいました。国語の時間みたいで恐縮ですが「も」と「が」の違いを分かっていただけますよね。「も」だと、神輿がオマケみたいになりますから。神様がお乗りになる神輿「が」出てはじめて祇園祭が成立するということ。このことは「とても」を10回くり返しても言いたりないくらい大切なポイントです。なんでしたら、この後の文は読み飛ばしてもらってもいいので、これだけはアタマにしっかりと叩き込んでいただきたいと思います。

写真提供:松本晃氏
写真提供:藤目幸擴氏

なぜ、そんなに神輿にこだわるのか?祇園祭は日本三大祭のひとつとして、世界に誇るお祭りといえますが、絢爛豪華な山鉾巡行を見て「ハイおしまい」みたいな感じに思っている方がまだまだいらっしゃいます。さっきのオバちゃんみたいにね。でも、それでは祇園祭の半分も見ていないことになります。もったいないですよね。そして残りの半分にこそ祇園祭の本義があるのです。

そもそも祇園祭とは?

時は平安の昔、貞観11(869)年にさかのぼります。この年は東北で大震災が起こり、平安京では疫病が大流行します。当時の人々はこれを怨霊の仕業と信じ、この怨霊を鎮めるには神様のお力に頼るしかないと考えました。

日本にはたくさんの神様がいらっしゃいますが、悪霊を鎮めるには強い神様でなければと、ヤマタノオロチを退治したことで有名な素戔嗚尊(スサノオミコト)にお出まし願うことになります。神輿にお乗りになった素戔嗚尊は、天皇家の庭園であった神泉苑までの道をお渡りになり、病気平癒と開運除災を祈ります。これが祇園祭の始まりです。同時に神様がお通りになる道に66本の矛を立てました。これが山鉾巡行の起源とされます。なぜ66本かというと、当時の日本の国(山城とか近江とか尾張とかです)の数が66だったから、だそうです。つまり祇園祭の主役は鉾ではなくスサノオノミコト=神様なのであります。注目すべきは、この一連の行事が「勅を奉じて」つまり天皇の命令によって行われていたということです。祇園祭は国家事業として始まり、その担い手は朝廷や貴族だったということになります。

※筆者の解釈による概念図です。

その後、平安~鎌倉~室町時代へと世が移るにつれ、祇園祭もその形を変えていきます。洛中では商工業が発展し、自治体としての町衆が力を持つようになりました。それにつれて祇園祭の担い手も彼ら町衆に委ねられる部分が大きくなります。このころからでしょうか、元々は槍のような武器であった矛が「装飾」としての色を持ちはじめました。趣向を凝らした装飾を町ごとに競うようになり、さらに西陣織の発展や、中国、ペルシャ、ベルギーなどからのタペストリーの輸入もあって、今日の「動く美術館」としての山鉾の原型になったといわれています。第二次大戦後になると、観光促進の意味もあって山鉾観覧の旅行ツアーが組まれるなど「祇園祭=山鉾巡行」のイメージがいっそう強まるようになりました。

しかし、あくまでも祇園祭の本義は、八坂神社の神様がお乗りになった神輿が市中を渡ることにあります。山鉾巡行の意義は、神輿が通る道をあらかじめ清めておくことにあるとされています。『山鉾巡行は本来、神輿渡御に伴う「露払い」の位置づけ』(京都新聞サイトより引用)といわれるユエンであります。これが神輿と山鉾の本来の関係です。

神馬に鎮座した御霊 (三条通黒門 又旅社にて)
厳密にいうと、神輿ではなく「神様」のお出ましが祇園祭成立の条件となる。昨年と今年は、神輿の代わりに「神馬」に御霊をお乗せすることで、祭が執り行われている。しかし、これはあくまでも特例。車にたとえれば、例年はハイヤーだったのが馬車になったようなものである。神様の乗り物は神輿。神輿に乗ってこそ神威が高められる。(撮影:筆者)

神輿と鉾が揃ってこそ祇園祭

祇園祭に限らず祭には、儀式としての「神事」と、華やぎとしての「神賑(かみにぎわい)行事」という2つの顔があります。といっても、よくわからないですよね。大ざっばにいうと、神事を「セレモニー」とすれば、神賑は「フェスティバル」といったニュアンスでしょうか。神賑には、人々が楽しみ賑わうことで、神様にも喜んでいただく意味もあります。であれば山鉾巡行は神賑であり、対する神輿は神事となります。とはいえ、神事と神賑の厳密な線引きは難しいものがあります。たとえば山鉾にも神事としての側面があります。山鉾に洛中の厄神たちを集め、その山鉾をすぐさま解体することで厄払いするという説です。また、黄金色に神々しく輝く神輿が激しく揺り動かされる様はまさしく賑わいそのもの。輿丁と呼ばれる舁き手たちが命懸けで神輿を担ぐのは、荒ぶる神様に喜んでいただくためでもあります。このように神輿、山鉾ともに神事と神賑の両面を持ちあわせているといえます。

しかし、神事といえばやはり神輿渡御です。1ヶ月間ある祇園祭の行事で、神事としての期間は7/10~7/28とされています。この間に何があるのか。神輿が倉から出て、その姿を私たちに見せてくれるのがこの19日間なのです。神事=神輿の証左といえるでしょう。祭の本義は神事にあり、神輿に乗った神様がお出ましになることで厄災を払うという、祇園祭本来の意味においては神輿が主で、山鉾が従の関係といえます。いっぽうで祇園祭が世界に誇れるお祭りであるのは、山鉾があってのこと。そのお蔭で賑わい、すなわち神賑となって神様も喜ばれるというわけです。また、多くの人々に勇壮な神輿ぶりを披露することにもつながります。神輿あっての山鉾であり、山鉾あっての神輿。祇園祭はこの両輪があってはじめて成り立つものだと私は考えます。

大いなる五十歩

さて、これでようやく冒頭に記した「祇園祭の(京都の)明日が見えた」の説明をすることができます。令和3年7月10日、2年ぶりの鉾建てが始まったこの日、八坂神社の境内では祇園祭「神輿洗式」の神事が執り行われました。神輿洗というと「やっぱり神輿も洗うんですね。大変でしょ。ご苦労様です」な~んてカン違いの労いのお言葉をいただくことも多いのですが、神輿洗とは鴨川のご神水で神輿を清める儀式のことをいいます。本来は四条大橋で行うのですが、コロナ禍のために残念ながら2年連続、境内での催行となりました。それでも昨年は神輿庫と呼ばれる倉の中から1ミリたりとも神輿を動かせなかったのが、今年は境内中央の「舞殿」にまで移動し、晴れがましく飾り付けをすることができました。

神輿庫から舞殿まではほんの50歩ほど。それでも神輿渡御にご奉仕する私にとっては

「たかが五十歩、されど五十歩」でした。

たとえわずかでも、昨年よりも前に進めたことを素直に喜びたいと思います。同じく山鉾も昨年は鉾建てすら、ままならなかったのが今年は一部の山鉾が立ち並ぶこととなりました。車の両輪にたとえた神輿と鉾が、それぞれ昨年よりも前進できました。これが私にとっての「祇園祭の明日」です。

舞殿に御輿を上げる輿丁たち
少人数で狭いスペースに神輿を入れるのは危険を伴う至難の業。この場に入れるのはベテランの輿丁に限られる。なお、この時点では飾りつけ前の裸神輿であり、神様は乗っていない。(写真提供:長谷川 賢吾氏)

苦しい時、辛い時に「夜明けの来ない夜はない」と言いますよね。国難であるコロナ禍中にあって、希望を見出すことができた1日だと思います。また、この50歩の道中で神輿に触れた輿丁(担ぎ手)たちは、とてもいい笑顔を見せてくれました。それは鉾建てに携わっていた方々の表情にもいえます。「笑う門には福来る」の言葉通り、彼らの笑顔が明日への希望です。

飾り付けられた3基の神輿
写真提供:長谷川 賢吾氏

祇園祭に教えられた日常のありがたさ

歴史上、祇園祭はこれまでに3度、山鉾巡行ならびに神輿渡御中止の憂き目に遭っています。応仁の乱、太平洋戦争、そして今回のコロナ禍です。2回の戦争では京都、そして日本が焼け野原となりましたが、祇園祭が復活するとともに京都も日本も見事な復興を遂げています。そこにあったのは日本人の勤勉さに加えて、祭に懸ける人々の心意気であり、神様や祖先、そして周りの人々への感謝の心であったと思います。コロナ禍を通じて、祇園祭がいつも通りに実施できるのは、私たちの平穏な日常があってこそだと痛感しました。やがて闇夜が明けて「明日」が来たとき、この気持ちを忘れないこと、それがコロナで私たちが得た教訓だと思います。そして、来年こそは八坂の大神を洛中にお迎えできることを切に願い「二礼二拍一礼」をもって本稿の結びといたします。

夜明けを待つ神輿
写真提供:長谷川 賢吾氏

(八坂神社中御座 三若神輿会 幹事 吉川哲史)

【参考文献】
『日本の祭と神賑(かみにぎわい)』/森田玲
祇園祭 温故知新/淡交社
祇園祭のひみつ/白川書院
絵画史料が語る祇園祭/河内将芳
重ね地図で読み解く京都1000年の歴史/谷川彰英
三条台若中会史/三若神輿会・公益財団法人祇神会
神輿大全/宮本卯之助
八坂神社ホームページ 京都新聞ホームページ
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この記事を書いたライター

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
企業向けの広告講座や「ひみつの京都案内」
などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

|八坂神社中御座 三若神輿会 幹事 / (一社)日本ペンクラブ会員|戦国/西陣/祇園祭/紅葉/パン/スタバ