第1の謎 「濁流の鴨川を泳ぐマンモス」
私が幼い頃、祇園祭が近づいてくると、毎年のように祖母が語り聞かせてくれた何とも奇妙なお話。それは、雨が続いて鴨川の水嵩が増してくると、四条大橋あたりにマンモスとも象とも思しき恐ろしい怪物が現れて、ゴーゴーと水しぶきを上げて川の中を歩き回るという。その姿は誠に恐ろしいので、子どもは決して川に近づいてはならないというのだ。私は祇園祭の季節になると、毎年この話を思い出しては何とも言いようのない不気味な、不安な気持ちになったものだ。明治20年代生まれの祖母は、四条新町で近世から続いた白生地問屋のお嬢様として育った女性である。そんな祖母の話は、おそらく京都で古くから語り継がれてきた昔話に相違ない。
それにしても、増水した鴨川を歩き回るマンモスのような怪物とは、いったい何なのだろうか。そもそもこの話は、何を子どもに伝えるために語られるようになったのだろうか。大人になって、祇園祭のお世話役をするようになっても、鴨川のマンモスの話はずっと私の記憶の中に巣作り、いつかその正体を突き止めてみたいと思い続けてきた。
その機会が、2007年の祇園祭の季節に訪れた。7月13日の『京都新聞』朝刊の「ふるさと昔語り」の記事を見て、私は思わず「これだっ」と叫んだ。そこには「桂川の怪」というタイトルで、かつて祖母が私に聞かせてくれたマンモスとほぼ同様の話が記述されていたのである。
この記事には、太秦開日町に住む今井幸代さんが、戦時中に祖母から聞いたとして、「雨降りの前後は桂川のそばへ寄ったらあかん。もやがかかり、えたいの知れん恐ろしいもんがでるんや」という話が紹介されていた。この「えたいが知れん恐ろしいもん」の正体については、近世後期に梅宮大社の神職であった橋本経亮が記録を残しており、そこには「波打つような桂川の濁流とともに、何かが亀岡方面から保津あたりまで下る。やがて水が引くと上流へ戻る。牛に似たような背中だけが見えるが、顔かたちは誰も確認できない」という。まさにこの怪物こそが、鴨川の四条大橋に現れるとされたマンモスと同じ存在であることは間違いないだろう。
すなわち、この怪物は河川の氾濫の象徴なのではないだろうか。鴨川でも桂川でも、かつて川辺は子どもたちの絶好の水遊び場だった。梅雨末期の集中豪雨で一気に水嵩が増すと、川はいつ氾濫してもおかしくない。その危険を子どもたちに諭すために創造されたのが、鴨川のマンモスであり、桂川の牛にも似た怪物だったのである。
先の橋本経亮は、戦国時代に滋賀県野洲川の洪水時に牛のような化け物が川から這い出て空へ上がったという話も紹介しているそうだが、河川の氾濫の恐怖を怪物や化け物に譬えて、特に子どもたちに危険を伝えるということは、どうやら相当古くからあった慣習のようである。子どもたちに「危ないから川に近づいてはならぬ」と真正面から諭しても、好奇心から逆に川に近づいてしまう可能性があるが、「恐ろしい化け物が現れる」と聞かされることで、確かに川に近づこうとしないのは、老いの域に入った今の私でも、子ども時代の発想を思い出して、思わず納得してしまう。
そういえば出雲の著名な伝説である「八岐大蛇」は、実は河川の氾濫の象徴だったという説が聞かれるが、そう考えると、各地に伝わる化け物伝説の正体は、何らかの自然災害を象徴している例が多いのかもしれないと思えてくる。
第2の謎 「2度行われる神輿洗い」
四条通を埋め尽くす観光客で賑わう宵山に先立ち、7月10日には神輿洗いが行われる。
これは、八坂神社から中御座の神輿が四条大橋の上まで引き出され、そこで鴨川の水を汲み上げて神輿に振りかける神事である。この水を浴びると無病息災とも伝えられていることから、近年では多くの見物客でごった返す。神輿洗いの意味は、神幸祭に先立って鴨川の水で神輿を清める、禊ぎの儀礼だと説明されている。これだけなら何の疑問もなく納得できる。しかし神輿洗いはもう一度行われる。しかもそれは7月28日である。神輿が本社から出て御旅所へ向かう神幸祭が17日、御旅所から八坂神社へ還る還幸祭が24日である。神の旅程は24日で完了しているはずだ。にもかかわらず、その4日後に再び神輿洗いを行うのはなぜなのか。まつりを終了するための2度目の禊ぎだといわれても、とうてい合点はいかない。
私は、これは次のように理解すべきではないかと考えている。すなわち鴨川の水を汲み上げることは、鴨川の神を神輿に乗り移らせることに意味があるのではないか。それが10日の神輿洗いである。そしてまつりが終わり、神輿に乗っていた川の神を再び鴨川へお返しする儀礼が28日の神輿洗いなのではないか。このように考えることによって、2度行われる神輿洗いの本来の意味が見えてくるように思う。ならば、祇園祭は鴨川の神、すなわち川神(水神)を迎えて行われるべきまつりだったことになる。
祇園祭は、近世末までは牛頭天王とその家族を、明治以降はスサノオとその家族を神輿に乗せて洛中へ招き、その卓越した霊力によって疫病の原因とされた死者の怨霊の怒りを鎮め、京の都から送り出すことを目的としたまつりであると理解されている。しかしそれは表向きの説明であり、もう一方においては、疫病蔓延の真犯人ともいえる河川の氾濫を防ぐために、川の神を迎え祀るという側面もあったのではないだろうか。そう考えると、神輿洗いは、まさに川神祭祀としての祇園御霊会を今に伝える事例だといえるのかもしれない。
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今日の祇園祭では、稚児が出るのは長刀鉾と綾傘鉾、および後述する「久世駒方稚児」だけである。特に長刀鉾の稚児は有名であり、7月13日の八坂神社への社参によって、それまでは普通の小学生であった男の子が五位少将、十万石の大名に相当する位を授かるのである。長刀鉾の稚児は17日の山鉾巡行で、四条通りに張られた注連縄を華麗な太刀さばきによって切るという大役を担っており、これは山鉾巡行の開始を告げる重要な儀礼として、毎年必ずテレビで放映される場面でもある。
そもそも「稚児」とは、祭礼で神霊の依り代となる子どもを意味し、神の代役としての重要な立場を担う存在である。稚児は本来は男女の区別はなく、女児が稚児を務める例もあるが、祇園祭では女人禁制が原則であり、特に山鉾巡行自体に女子の参加が禁じられていたために、稚児も男児に限られている。
さてここからが本題であるが、17日の山鉾巡行が終わった夕刻、八坂神社を出発する御輿渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る人は少ないのではないか。この稚児は木製の駒頭を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」とよばれてきた。この稚児は、旧上久世村の氏神である綾戸・国中神社の御神体とされている木製の駒頭を胸に抱き、馬に乗って御輿の渡御に奉仕する。17日の朝、上久世では村人から「お駒さん」とよばれて崇拝されている御神体の駒頭が入った櫃を、神社からその年の稚児を出す家に運び、床の間に安置する。やがて稚児は父親と綾戸・国中神社の神主とともに、かつてから「中宿」と定められている祇園花見小路の原了廓家に向かう。そこで御神体ははじめて櫃から取り出される。稚児はこの駒頭を首にかけ、中宿から騎馬で八坂神社へ社参に向かう。この時、駒形稚児は騎馬のまま境内に入り、拝殿を三周して直接本殿に乗りつけるのである。十万石の大名の格式を持つといわれる長刀鉾の稚児でさえ、境内前で下馬して徒歩で本殿に参拝するのに、駒形稚児は騎馬のまま本殿に乗りつけるというのは、まさにこの稚児がそれ相応の位を持ち、また祇園祭において非常に重要な役割を担ってきたことを物語っているといえよう。
ところで、上久世という八坂からは遠く離れた洛外の地から、祇園祭の重要な稚児が出ること自体が不思議であり、またその氏神である綾戸・国中神社と祇園社の関係はというと、ますます謎は深まる。断片的な史料によれば、綾戸社は近世初期には「祇園駒之社」ともよばれ、現在の駒頭はもともと綾戸社と深い関係のあるものであり、また同時にこの駒頭をめぐる信仰が広く流布していたことがうかがえる。しかし綾戸社と祇園祭との関係は不明であり、いつ頃いかなる理由で上久世の氏神と祇園祭とが結びついたのか。今は残念ながらそのことを知るすべはない。ただ近世の史料に「上久世駒形神人」の名が出てくることから想像して、近世初頭には今日と同様に上久世の人々が祇園祭の神幸祭と還幸祭に奉仕していたことは確かであろうと思われる。また平安時代末期に書かれたという『年中行事絵巻』の中に、駒頭を胸に抱き、馬に乗った稚児が祇園御霊会の御輿に供奉する姿が描かれていることから、少なくとも平安時代末期には、祇園会に駒形稚児らしき存在が関係していたであろうことだけはわかるのである。
駒形稚児と祇園祭との関係を論じた研究はきわめて少ない。しかし若干の研究によって、駒形稚児が平安時代から祇園御霊会と深く関わり、またそれは祇園社の主たる祭神である牛頭天王の后とされている頗利采女、後に「少将井殿」と呼ばれるようになった神をめぐる信仰と深く関わっていたらしいということが明らかにされてきた。17日の夕刻、八坂神社を出て四条寺町の御旅所へ向かう神輿は、中御座・東御座・西御座の3基であるが、かつては中・東の2基が大政所御旅所へ渡御していたのに対して、頗利采女を奉ずる西御座だけは少将井御旅所まで渡御していた。久世の駒方稚児は、どうやらこの頗利采女という神と関係があったらしい。これらのことから、駒方稚児をめぐる信仰は、「少将井」という名の通り、「井」すなわち「水」をめぐる信仰とも深い関係があり、夏まつりとしての祇園会における「聖水信仰」に繋がる可能性があることも示唆されている。また駒形稚児は、他地域の田楽・猿楽系統の芸能に駒頭がよく登場することからも、もともとは祇園会において何らかの芸能にたずさわる存在であったのではないかという点も徐々にわかってきた。しかし祇園祭をめぐる諸問題の中で、この「駒方稚児」の存在だけは、未だに謎のベールに包まれているのである。