▶︎望月に照らされ 祇園祭
▶︎大船鉾保存会代表理事 木村 宣介 祇園祭は疫病に負けたのか
▶︎祇園祭「鷹山」2022年の本格復帰へ向けて
▶︎祇園祭は疫病に負けたのか 最終話
昨日は山鉾にとっての神輿について書いた。今日は神輿方(みこしかた)の様々な思いを今年の祇園祭を振り返りながら語りたい。またしても中学生の日記のような私家版コラムなので乱文であることはご容赦いただきたい。
34の山鉾同士にプライドというかライバル意識があるように(私にはそう見えます)、三社の神輿会の間にもそれはある。担い手の活力になり、見る人にとっての魅力になり、大神様にお喜びいただけるのであればそのライバル心は正のエネルギーだ。只あからさまにそれをライバル心だと言明してしまっている唯一の無粋さはお許しいただきたい。
さて祇園祭に登場する三座の神輿(正確には東御座子ども神輿をいれて4座)だが、主祭神である素戔嗚尊がお乗りになる中御座を担ぐ三若神輿会、櫛稲田姫にお乗りいただく東御座を担ぐ四若神輿会、八柱御子神にお乗りいただく西御座を担ぐ錦神輿会があることはご存知だと思う。もしご存知なければ拙著のこの記事をお読みください。
今年(令和4年)の祇園祭では山鉾巡行は先祭も後祭も例年通りの巡行であった。神輿は少しでも密を避けるために例年のおよそ半分の輿丁(担ぎ手)で八坂神社から御旅所へ四条通を直行(17日神幸祭)、直帰(24日還幸祭)のおよそ1㎞の渡御であった。しかしさまざまな絵図に残っているように、江戸時代から明治初期にかけては八坂神社から四条寺町の御旅所へ直行でお渡しするのが神幸祭の習わしであった。3年前、コロナ禍前の令和元年の祇園祭創始1150年の祝祭でも又旅社に三座の神輿が揃ったが、私と同じ三若役員であった父も祖父も曽祖父も見ることができなかった古式ゆかしい神輿渡御を経験する僥倖に恵まれたことになる。
さて私は三社の神輿会が大切にしているものが少しずつ違うと思ってる。それは「三若、四若、錦って?」で書きかけた三社の神輿会の担ぎ方にも表れている。私のいる三若は神事としての神輿渡御に最も篤いと自負している。そして担ぎ方もオールドスタイルだ。四若は神輿のプロだ(職業輿丁という意味ではない)。本当に上手いと思う。例えば神輿を高く差し上げて、神輿の中央を軸として円状に廻る「差し廻し」という動作。四若は「ねこした」と呼ばれる治具と人を神輿の真下に入れて支えているのだが、本当に動きが綺麗だ。錦の神輿は楽しそうだ。御旅所前など狭い場所を廻る「辻廻し」。錦の神輿(西御座)のあの縦横無尽の動きを辻廻しと呼んでいいのか悩ましいが、神輿が斜めになっている様を見る度に、よくあれで神輿を落とさないな…と感心する。四若の動きも錦の動きも三若には真似ができない。もっとも三若の輿丁にその技量がないということではなく、指揮官である私にその動きを御する技量がないということなのだが。
三社それぞれのプライドが如実に出たのが24日の還幸祭(御旅所から八坂神社へのお還り)であっただろう。3年前の祇園祭創始1150年の還幸祭でも四条大橋の上で三座の神輿がそろい踏みで差し廻しをしたと記憶されている方もあると思うがそれは正確ではない。あの年あの時に四条大橋で同時に差し廻したのは中御座(三若)と東御座(四若)だけであった。又旅社(三条黒門)をほぼ同時に出発した三座の神輿であったが、大橋手前の四条河原町には西御座(錦)が大きく遅れてきた。先頭をいく中御座を指揮する私はもどかしい思いで西御座が追いついてくるのを待った。時間が遅れればそれだけ境内で三若が神輿振りをできる時間が短くなるからだ。そしてようやく東御座の後ろに西御座が着いたのを確認して、私はうちの神輿(中御座)を出発させた。四若・東御座はうちの神輿にピッタリついてくる。錦・西御座はあぐら(神輿を載せる台座)で休んでついてこれない。三座が四条河原町に揃った一瞬の写真が京都新聞などに載って美しい光景として描かれていたが、あの年に四条大橋で同時に差し廻しができたのは三若・中御座と四若・東御座の二座だけであった。
3年前の苦い思い出があるからこそ、今年の四条大橋の差し廻しは是が非でも三座を揃えたかった。四条大橋の東西が約60m。輿丁の数は例年より少ないとはいえ本当に三座が並ぶことができるのか。5月からバスで何度も往復したり、早朝の人の少ない時間帯に歩いたりして橋の長さと幅の感覚を頭に描けるようにした。うちの神輿(中御座)が川端通にはみ出るのも嫌だし、錦・西御座が先斗町にはみ出るのも嫌だった。三座の神輿を四条大橋の上にぴったり納めて同時に綺麗に廻すことが、私の大神様(素戔嗚尊・櫛稲田姫・八柱御子神)への約束だった。四条寺町の御旅所を出発した時からガンガンと神輿を振っていったが、四若・東御座はピッタリ後ろについてくる。錦・西御座はあいかわらずマイペースで少し遅れ気味であったが追いついてきた。四条大橋ではまず四若・東御座をセンターに据えてから三若・中御座と錦・西御座をギリギリまで東御座に寄せた。果たして三座の同時の差し廻しはうまくいったのか、それがこの写真だ。
3年前は果たせなかった美しい三座のシンクロの差し廻しを披露することができた。それは高々と差し上げた大神様に、たまたまその場におられた観客や参詣者に、そしてこの瞬間を作ってくれた三社の輿丁の瞼と心に。これから何十年先もこのようなことはもうないかもしれない。三社の神輿会が理想とする神輿がそれぞれ違ったとしても「神人和楽」担ぐ人、見る人が喜べば神様も喜んでくださっているはずだ。このシーンを私が図ったかのように書いてはいるが、三社の輿丁が同じ想いで、同じ絵(場面)を想像して担いでくれたからこそ実現した今年の還幸祭のハイライトである。そして私をここへ導いてくださったのは3年前の八坂神社の森壽雄宮司(現名誉宮司)のお言葉であった。祇園祭がすべて終わった直会(なおらい)の席で「還幸祭の四条河原町で、西御座を待つ先頭の中御座の姿が美しかった」と仰った。あの年の西御座を待つ私のもどかしい気持ちは全くもって美しくはなかったのだが、宮司のこの時のお言葉が私の心の中に反語というかアイロニーというか戒めとして響いていたのかもしれない。
最初に三社それぞれのプライドやライバル心のようなことを書いたが、その正体が何なのかはこの四条大橋の揃い踏みを読んでくださった読者の豊かな想像力にお任せをしたい。来年こそは通常の祇園祭に戻るであろう。前編と後編に分けて書いたこの中学生の日記のようなコラムが読者の皆さんが来年の祇園祭を楽しみにされる一助となれば三若の幹事長としてもKLKの編集長としても本望である。
最後に勝手にカーテンコール
神輿を動かしているのは三若、四若、錦の神輿会であるが、私が「イチバン」と誇っている三若以上に正当にご神事を全うされているのが宮本組である。神輿の担ぎ手のような高揚感とは無縁かもしれない。私のように宮司のお言葉が戒めになるような心持ちとも無縁であろう。ただただ気高くご神事を全うされているその後ろ姿に尊崇するばかりだ。お互いの立場が異なるので渡御の道中において先を行かれる宮本組と、その後ろで神輿の先頭をゆく三若の幹事長が時としてぶつかることがあるのは三十年前のそれぞれの先々代の時代から変わらぬ光景である。しかしそれもこれも大神様のお渡りを成すためのお互いのお役目の違いと私は心得ている。
数々のご無礼をこの場でお詫びし、神輿を先導していただいていることに御礼を申し上げたい。
▶︎[納涼床の起源]神輿洗い