京都タワーの展望台から洛中を眺めると、すぐそばにある2つの大きなお寺に視線を奪われます。地元では「お東さん」「お西さん」で親しまれている東本願寺と西本願寺です。でも、どうして本願寺は東と西の2つもあるのでしょうか?観光客にとっては素朴なギモンだと思います。いや、実は京都人でもよく知らない人が多いのです。本願寺の東西分立、そこには権力者たちの思惑、そして家族の確執といった人間模様が織りなすドラマが描かれていたのでした。

 

本願寺分立の前夜

「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、誰でも極楽に行くことができる。そう説いたのは知恩院で有名な浄土宗の開祖・法然上人でした。これは「難しいお経の理解や、厳しい修行をしなくても人は救われる」ことを意味します。つまり仏教を大衆に広めたのが法然です。この大衆化をさらに進めたのが、法然の弟子・親鸞聖人であり、浄土真宗であります。肉食を禁じるなど厳しい戒律を課せられていた僧侶に、妻帯を認めたのが親鸞です。これは当時の仏教界にとって画期的なことでした。

親鸞聖人像

親鸞聖人像

さて、浄土真宗には現在16もの宗派があり、なかでも有名なのが、浄土真宗本願寺派 (通称 西本願寺)と、真宗大谷派本山 真宗本廟 (通称 東本願寺)です。しかし、歴史をさかのぼると、この両本願寺の2派は決して主流ではありませんでした。本願寺の起源は、親鸞聖人の遺骨が京都の東山大谷から、知恩院の北にある吉水の地に改葬され、木彫りの親鸞像を安置した1272年といわれています。でも、親鸞の子孫たちは、親鸞聖人の教え「宗教の目的は勢力を大きくすることではない」に従い、教派の拡大をしませんでした。そうしていつの間にか、本家である本願寺派より真宗仏光寺派や真宗高田派といった、いわば「分家」の方が大きな教団となっていたのです。

そこに現われたのが「本願寺中興の祖」といわれる第8世宗主 蓮如です。「布教の天才」ともいわれた蓮如は、それまでの路線を転換し教団を拡大、本願寺は一大勢力となります。その最盛期といわれるのが第11世 顕如の時代、すなわち織田信長と敵対した戦国時代なのであります。

あまり知られていないことですが、この時代は日本でも宗教戦争が多発していたのです。詳しくは拙稿「信長史上最凶事件!延暦寺焼き討ちに大義はあったのか?」をご覧ください。

本願寺は、天台宗や日蓮宗(法華宗)と激しく対立しました。1465年には天台宗延暦寺の兵に寺を破壊され、後に蓮如は親鸞像とともに越前吉崎に逃れます。その後、山科に戻り勢力を伸ばしたものの1532年、今度は日蓮宗に敗れ、山科本願寺は焼失してしまいました。このときは勝者であった日蓮宗ですが、その4年後には逆に延暦寺の襲撃にあい、洛中洛外にあった日蓮宗21の寺院が焼き払われています。これを天文法華の乱といい、洛中は大火に見舞われました。このように、京都とその周辺では、宗教同士の対立が戦争にまで発展し、宗教勢力が戦国大名化していたのが戦国という時代でした。

さて、山科を追われ次なる拠点を求めた本願寺は、大坂石山の地に要塞ともいえる巨大な寺院を築きます。2度の敗北を通じて武装強化の必要性を強く感じたのでしょう。信長と対立したのは、この石山本願寺時代のことです。

「信長に従うか、反抗するか」で親子ゲンカ勃発

信長を最も苦しめた男として挙げられるのが、本願寺の顕如でした。
では、なぜこの両者が対立したのか。意外に思われる方も多いでしょうが、信長は宗教の教えそのものは否定していません。つまり布教は自由だと。ただし、宗教が軍事力を持つこと、さらには政治に介入することには徹底して排除しようとしました。そこで、将軍足利義昭の名のもと、本願寺に法外な金銭を要求します。はじめは渋々ながらも従っていた顕如でしたが、将軍義昭と信長の対立で状況は一変しました。義昭は武田信玄をはじめ全国の有力大名に檄を飛ばして「信長包囲網」を形成します。顕如はこの呼びかけに賛同、ここに「本願寺vs信長」の構図が決定的なものになりました。

信長包囲網

信長包囲網

信長の盟友・家康ともども、敵対勢力にぐるりと囲まれている。左下の空白地・紀伊の雑賀衆も本願寺に味方したため、まさしく四面楚歌状態となった。

俗に「石山十年戦争」といわれるように、この戦いは決着までに10年の歳月を要しました。顕如の一声で各地の浄土真宗の勢力が織田軍に襲いかかったこと、西国の雄・毛利氏が本願寺の救援に向かったことなどが理由に挙げられます。とりわけ手を焼いたのは、死を恐れない信者たちの存在でした。「南無阿弥陀仏」と唱えれば、戦いで死んでも極楽に行くことができると信じていたからです。しかし、織田軍は、その圧倒的な兵力と鉄甲船などの技術革新を全面に押しだし、やがて本願寺は劣勢に陥ります。ついには天皇の名において和睦(実質的な降伏)となり、本願寺は石山からの撤退を迫られました。

本願寺のトップである顕如は、信長の要求通りに紀伊に移ることを決断。しかし、長男 教如は「信長なにするものぞ!」とあくまで抗戦を主張します。これに怒った父 顕如は教如を廃嫡(勘当みたいなもの)し、三男の准如を跡継ぎに指名します。このことが本願寺東西分立への第一歩となりました。

顕如の家族

顕如の家族

まずは、この基本形を押さえてください。このあとドロっドロになっていきます。

信長への対応をめぐって「真っ向対立する親子」の図。

信長への対応をめぐって「真っ向対立する親子」の図。

ただの親子喧嘩では済まずに、ついに決裂。

ただの親子喧嘩では済まずに、ついに決裂。

京都に戻って安泰かと思いきや…

さて、「本願寺vs信長」の終戦から2年の時が経った1582年、明智光秀の謀反「本能寺の変」により、信長は炎に包まれたまま自刃します。世の流れは一変し、天下を握ったのがごぞんじ豊臣秀吉です。関白である秀吉の威光を前に、顕如は神妙な態度で従います。そこで1591年、秀吉は堀川七条の地を与え、本願寺は京都に戻ることになりました。これが現在の西本願寺です。しかし、顕如は間もなく亡くなってしまいます。すると秀吉はなにを思ったか、廃嫡された長男 教如を後継者に指名するのです。

秀吉登場で返り咲いた教如だったが…。

秀吉登場で返り咲いた教如だったが…。

これに対し兄弟の母である如春尼は弟 准如に肩入れしニッチモサッチモのお家騒動となります。その背景には教如の嫁との不仲、つまり嫁姑問題もあったといわれています。結果、秀吉の裁定により本願寺の宗主は准如とされました。秀吉は、強大な本願寺の宗主を自分が決めることで、その権力を天下に示そうとしたのではないでしょうか。いずれにしても、兄 教如はまたもや本願寺から追い出されることになりました。

関白の命で准如が宗主に。西本願寺の誕生。

関白の命で准如が宗主に。西本願寺の誕生。

東へ西へ…

さてさて、ふたたび時は流れて1602年、秀吉はすでに亡き人となっていました。再び世の風向きが変わり、関ヶ原の勝者である徳川家康が将軍の座に王手をかけていました。そこで追い出されていた兄 教如は家康に取りいり、七条烏丸の地を寄進されます。「この時、歴史が動いた!」風にいえば、まさに本願寺が東と西に分かれた瞬間でした。この地に築かれたお寺が、現在に至る東本願寺となりました。

戦国のアンカー・家康の登場で再び風向きが変わる。

戦国のアンカー・家康の登場で再び風向きが変わる。

ここで疑問があります。このときなぜ家康は教如に「東」を与えたのでしょうか?これは「なぜ本願寺を東と西に分けたのか?」への答えとイコールになります。たとえば准如を廃し、教如を本願寺のトップに据えるという策もあったと思います。秀吉の決定を覆すということは「今、権力を握っているのは豊臣家ではなく、徳川家であるオレだ!」というアピールにもつながります。また、長男である教如が宗主の座につくのは自然な流れともいえます。ではあるものの、家康はあえて東西に分けたのだと思います。

そこには家康らしい深謀遠慮がありました。本願寺という大勢力を2つに分裂させることで、将来の徳川政権に対する脅威を排除したと考えられます。実は家康には苦い体験がありました。家康の若き日のこと、徳川家の本拠・三河で大規模な一向一揆(浄土真宗門徒の一揆)が起こり、家康はその対応に悩まされます。また、幼少からの腹心でもある本多正信が一揆方につくなど、精神的にも大きなダメージがありました。ですから、本願寺に対してはある種のトラウマがあったのかもしれません。本来なら積年の恨みのもと、本願寺そのものを潰してしまいたいと思っても不思議はありません。でも、そんなことをすれば、また世情不安となり、この機に乗じて豊臣派が攻勢をかけてくる恐れもあります。そこで、東西に分断したうえで本願寺を残したというわけです。爾来、東と西が統合することはなく、兄 教如の東本願寺が「真宗大谷派」、弟 准如の西本願寺が「浄土真宗本願寺派」として今日に至っています。

以上、整理するとこうゆうことです。

以上、整理するとこうゆうことです。

親鸞の教えが東西分立の遠因?

私は「京都は世襲文化のまち」だと考えています。天皇家が長らく居を構えた地であり、お家元が多く名を連ねるのもまた京都です。そこにあるのは世襲の歴史です。本願寺は親鸞の家系によって、その歴史を営々と紡いできました。つまり、京都の特徴そのものといえるわけです。本願寺の歴史は流転の歴史でもありましたが、最後にたどり着いたのが京都でした。それは落ち着くところに落ち着いた歴史の必然があったように思います。

本願寺は時に歴史の波に飲まれ、また時には権力者の思惑に翻弄され、有為転変を経て東西に分かれました。しかし、そもそもの発端は親子兄弟での争いであり、その火ダネを権力者が利用した、ともいえます。ということは、家族を持つこと、つまり妻帯を認めた親鸞聖人の教えが東西分立の遠因ともいえるわけです。皮肉なものですね。宗教といえども結局は人間の為すこと。私たちの社会と変わりはありません。つまり、本願寺の歴史とは人間ドラマそのものといえます。歴史とは結局、人間が演じたドラマであり、その延長上に現代の社会があり、今日の京都があるわけです。



結びに…。
「本願寺の歴史は人間ドラマそのもの」と綴りながら、フツフツと心に湧きあがるものを感じました。「本願寺の物語は大河ドラマの題材になるのでは?」という想いがそれです。法然、親鸞、顕如、信長、秀吉、家康と豪華キャストが彩る300年の歴史は、まさしく大河です。NHKさん、ぜひご一考を!


〈了〉

【参考文献】
織田信長 男の魅力/小和田哲男
一冊で読む豊臣秀吉のすべて/小和田哲男
神になろうとした男 織田信長の秘密/二木謙一
日本史集中講座 鎌倉新仏教編/井沢元彦
逆説の日本史10/井沢元彦
戦国時代の組織戦略/堺屋太一
日本を創った12人(前編)/堺屋太一
空白の日本史/本郷和人
明智光秀10の謎/本郷和人・細川珠生
歴史人/戦国時代の全国勢力変遷地図
歴史人/敗者の戦国史
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この記事を書いたKLKライター

八坂神社中御座 三若神輿会 幹事 / (一社)日本ペンクラブ会員
吉川 哲史

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
企業向けの広告講座や「ひみつの京都案内」
などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

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