京都駅を降り、北に向かうと目にはいるのが東本願寺と西本願寺。市民には「お東さん」「お西さん」として親しまれていますが、ドイツじゃあるまいし、なぜ東西に分かれたのでしょうか。そこには戦国の世に、そして権力者に翻弄された歴史がありました。

信長に従うか、反抗するか、で親子ゲンカ勃発

時は戦国時代の末期、織田信長の時代にさかのぼります。当時、本願寺は京をはなれ大坂の石山を本拠としていました。この石山本願寺が信長の攻勢に対して10年にわたって徹底抗戦を続けます。最終的には信長の勝利となり、和睦の条件として本願寺は石山からの撤退を迫られました。

本願寺のトップ・顕如(けんにょ)は、要求通りに紀伊の雑賀(今の和歌山県)に移りますが、長男・教如(きょうにょ)は「信長なにするものぞ!」とあくまで抗戦を主張し、本願寺は真っ二つに分かれます。これに怒った父・顕如は教如を廃嫡(勘当みたいなもの)し、弟(三男)の准如(じゅんにょ)を跡継ぎとしました。

あ~、も~、顕如だの、教如だの、准如だのと、似たような名前ばっかりで訳わかんないですよね。実は私もちょっと混乱してきました。自分のためにもここまでの話を図にするとこうなります。

京都に戻って安泰かと思いきや…

時は流れて1582年、歴史を揺るがす大事件「本能寺の変」により、信長は炎に包まれたまま帰らぬ人に。そして天下を握ったのが、ごぞんじ豊臣秀吉。顕如は秀吉に神妙な態度で従ったので、1591年に秀吉は京都・七条に土地を与え、本願寺は京都に戻ることになりました。これが現在の西本願寺です。しかし、顕如は間もなく亡くなってしまいます。すると秀吉はなにを思ったか、廃嫡された長男・教如を後継者に指名するのです。

これに対し兄弟の母・如春尼が弟・准如に肩入れし、泣くわわめくわ大暴れのモンスターペアレントぶりを発揮、ニッチモサッチモのお家騒動となります。その結果、兄・教如はまたもや本願寺から追いだされ、本願寺の当主は弟・准如、ということになりました。教如からすれば、いい夢をみさせといてバスッと斬られた格好でしょうか。ある意味、美人局みたいなものですね。

東へ西へ…

ふたたび時は流れて1602年、秀吉はすでに亡くなり、関ヶ原の勝者・徳川家康が征夷大将軍に王手をかけていました。そこで追い出された兄・教如は家康に取りいり、七条烏丸の地を寄進されます。これが現在の東本願寺です。

「この時、歴史が動いた!」風にいえば、まさに本願寺が西と東に分かれた瞬間でした。爾来、東と西が統合することはなく、兄・教如の東本願寺が「大谷派」、弟・准如の西本願寺が「本願寺派」として現在に至っています。

東西分裂の遠因は妻帯にあった?

いかがでしたか。なんだか安もんのドラマのようなドロドロの話でしたが、ひじょーにシンプルにまとめると、本願寺分裂の原因は親子喧嘩&兄弟喧嘩ということになります。

宗教といえども人間のすること、我々の社会と似たようなものなんですね。そして、これは妻帯、つまり家族をもつことを認めた浄土真宗だからこそ起こりえた分裂ともいえます。他の宗派が女人禁制としたのは禁欲の意味だけではなく、もしかするとこのような事態を未然に防ぐための手だてだったのかもしれません。子孫を残すという生物の本能に反する教え、実はこれこそ人間というものを知り尽くしたうえでの悟りだったのかもしれませんね。

(編集部 吉川哲史)

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